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書評(平成19年07月22日)

『赤十字とアンリ・デュナン』(吹浦忠正著・中公新書)

  アンリ・デュナンは、赤十字社の創立者である。しかしその割には、生まれ故郷のスイスのジュネーヴでも、多くの人から忘れ去られ、あまり知られていない人物だそうだが、私は世界史が得意だった事もあり知っていた。といってもその一点くらいしか知らなかったが。
 彼はたとえば、若い頃YMCAの設立に努力している。またジュネーヴ条約の推進などもしている。そして最初のノーベル平和賞も受賞している。

 彼がそのような(YMCA活動以外の)人道的な活動をはじめたのは、イタリアの北部を自国領とするオーストリアが、イタリア統一をめざすサルディニアと、それを援軍するフランスが戦った戦い、ソルフェリーノの戦いが契機だった。彼はその戦いを実際に見た訳ではなかったが、戦いの翌日そこを通り、戦争の悲惨さを目の当たりにした。そこで傷病者の救護に献身した。その時のことを、「ソルフェリーノの記念」という本に詳しく生々しく書いた。そしてその本の中でこう述べた。

 「世の中が平穏無事であるその時に、この仕事に情熱を燃やし、献身的かつその資格の十分にあるボランティアによる戦時中の負傷者の看護を目的とするような救護団体を設立する方法はないものだろうか。
 国際的で神聖な何か1つの共同規約を定めることはできないだろうか。一度この規約が裁可、承認されれば、それはヨーロッパのあらゆる国において『負傷者への救護団体』の基礎としての役目を果たすのではないだろうか。戦う前に予め協定を結び、その方法などを考えておくことは重要な課題となってくる。」(寺家村博訳・『ソルフェリーノの記念』)
 つまり前段に対応して赤十字が生まれ、後段が「戦地軍隊傷病者ノ保護ニ関スルジュネーヴ条約」へ結実した訳だ。

 彼は先にも述べたが、若い頃YMCAの設立にも大いに関わったりした。赤十字の創立後は、創立者であるにもかかわらず、まもなく赤十字の組織から追い出されたりしたらしい。YMCAの活動から離れた理由も、赤十字から脱退した理由も、似たようなものだった。彼には、比類なき情熱で抜群の行動を示す一方で、自ら作った組織から常に孤立してしまう独断的な性格が多分にあり、それが禍したらしい。

 赤十字を脱退後まもなく、彼はアルジェリアで経営していた農場が、ジュネーヴ裁判所で破産宣告(1867年8月)を受ける。そして追われるようにジュネーブを去る(以後一度も故郷に帰ることはなかった)。そのあと一部の支援者から援助も受けたりしたが、彼はその日の食事にも事欠くような極貧の生活を送るようになる。それでも彼は「人間は人間らしくいきる」という信念から活動を続けていく。一時期イギリスへ渡って活動し、再度注目を集めたりするが、植民地事業に熱心なイギリス国は彼を無視する。そしてイギリスも去る。

 各地を放浪したデュナンは、心身とも疲れ果てた状態で1887年7月スイス北東部のドイツ語圏の町ハイデンにたどり着く。ここで、赤十字の創立者としてのデュナンの再発見が起こる。彼は再び注目を浴びるようなメッセージやアピールを世界に向けて色々発信する。
 たとえば『極東の諸国民に告ぐ』という当時「火のような発言」といわれた激しいアピールでは、国際仲裁裁判所の設立と平和のための諸国連盟を創る建議をしている。また彼はジュネーヴ条約の推進のほかに、ハーグ条約にも、貧困時代に彼が意見した内容が反映されたりしている。

 ジュネーヴ条約は、デュナンの一番の主張である「人間を人間らしくとりあつかう」ことを条約化したものに対し、ハーグ条約は戦う方法や手段を規定したもので、この2つの条約は、現在国際人道法(こういう名の法律は無いが)の二本柱になっている。彼はこういった功績により、1901年第一回ノーベル平和賞を受賞する。

 デュナンの一生を読んでいると、独断専行の性格が禍する自業自得の困窮生活を送っていますが、それでも挫けることなく、訴え続けている。
 「戦争さえなければ、平和でありさえすれば、それでいい」という事では納得せず、終生、「そこで人間が人間らしく生き、扱われるというヒューマニティ(人道)が行われていなければならない」「平和は人道の必要条件であり十分条件ではない」と。
 このような飢えても筋を曲ない頑固一徹な姿があるかと思えば、最後の住処となったハイデンで近隣の子供と接している姿は、大変子供好きな上に、茶目っ気なイタズラもする一面も見せる。このような人間味あふれる姿にも、実際に付き合えば付き合いにくいかもしれないが、何か非常に親近感を覚えた。

  この本は、赤十字とアンリ・デュナンとの関わりとの関わりが中心ですが、赤十字の旗章が、色々あったこと(現在もイスラム系の赤新月の旗章が並存)の理由や、日本とアンリ・デュナンとの関わり、幕末に長崎に来たオランダ医師ポンペが、帰国後赤十字と関わっていた話などの話も色々出てきて、最後まで興味深く読むことができた。

 1977年に「ジュネーブ条約追加議定書」が纏められてから、日本の国会はなかなか、この加盟を承認しませんでしたが、2004年8月にやっと承認、翌年から加入しています。(ただしこの本の中では、出版された段階ではまだ加盟していないので、未承認となっている)
 日本は、明治期、赤十字の広報活動が盛んだったようだが、現在は赤十字やジュネーヴ条約については、あまり知られていないように思う。
 でも日本が世界で平和のために貢献するためには、もっと理解を深める必要があろう。
 できるだけ多くの人にこの本を読んでもらいたいと思った。

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