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書評(平成19年07月25日)

『禅とは何か』(鎌田茂雄著・講談社学術文庫)

  最近、私は禅に非常に興味がある。一度しか参禅(それも20年以上もの遠い昔)はしたことがないが、これぞ東洋思想の一つの柱だと思うようになっている。
 この本の著者は、禅宗の僧侶という訳ではなく、出版当時東大の東洋文化研究所教授だった人のようだ。現在もご健在かどうかは知りません。著書は、円覚寺で何度も参禅したと言いますが、臨在禅、曹洞禅のどちらがいいと言っているのではなく、中国から日本に伝わった禅宗(南宋禅)全体について述べています。
 真摯な禅修業の体験と仏教学者としての深い研究成果をもとに、禅との出会い、禅の思想とその歴史、禅者の生き方、禅の生活、さらに禅を現代にどう生かすか、その具体的な方法にいたるまで、禅とは何かを、実に平易に説いた本です。

 著者は、禅宗は、他の経宗と違って、1つの経典に頼り切ることはないといいます。「金剛経」でも「阿弥陀経」でも何でも良い訳です。その主体的な禅者の禅経験を表現してくれれば何でもいいのだといいます。
 著者は、まず禅との出会いを述べていますが、戦後陸軍士官学校から復員してきた時、駒沢大学に入って禅を勉強しようと思ったが、授業がほとんどなく、図書館へ行って、手当たりしだい仏教書や哲学書を読んだといいます。その時、出会ったのが西田幾多郎と鈴木大拙だったといいます。どちらも私が住む石川県出身者です。特に西田幾多郎は、人生で最初に教壇に立ったのが、この私が住む七尾ということです(ついでに言うと奥さんも七尾出身)。

 そして西田や鈴木の思想などを通して、禅を説明しています。西田や鈴木らは禅の影響が深いから、そういう手法もなるほどとわかるのですが、著者は、それだけでなく、明代の修養書『菜根譚』や、老子、荘子、柳生但馬守の言葉や宮本武蔵の『五輪書』、親鸞の言葉をしるした『歎異抄』まで用いて(勿論、仏教の歴史の流れの中での説明もあり)、比較などもしながら禅の考えを説明しています(時にはキリスト教との比較もしながら)。

 一例をあげます。仏教の根本は空であるといわれ、それは禅では、実践的には無心ということ、執(とら)われのない、どこまでも自由な主体をつかみ、自己が主体者として生きることを言います。臨在は、普通の人間は外界に振り回されて生きる。しかるに自分は随所に主となるのだ。至る所において主人公にならなければいけないのだといっています。これを、著者は『菜根譚』の「纏脱(てんだつ)はただ自心に在るのみ」(「纏」とは束縛、「脱」とは解放、解脱)という言葉を引用し、外物に束縛されるのも、解放されるのも、ただ自己の心1つにあるという言葉から敷衍して説明するといった具合です。

 この本自体禅の入門書ですの。「禅とは何か」をここで要約してもきりがないので、もうこの辺でやめておきましょう。ただし1つ面白いことを書いているので、後半はそのことを記します。
 それは禅と浄土教の共通性についてです。これはこの著者の独創という訳ではないですが、非常にうまく説明しているので、紹介することにしました。

 仏教が生まれたのは、古代インドのカースト制という非常に多くの貧困層をかかえる階級社会の中でありました。仏教は当初輪廻思想が説かれたが、中国に入ってきた時、現世的な中国人によって転換がおこります。来世よりも現世において悟りを考える性向から、その要求を満たすものとして、禅と浄土教が生まれたといいます。

 禅と浄土教は非常に違っているように思われていますが、問題解決の動機は同じです。中国人の、現世において成仏を得ようとする動機が浄土教と禅を生んだのです。禅は勿論現世におい悟りを開いて成仏しようとする、すなわち現世そのものの中に安心の根拠を求めているのが禅であり、現世とただちに繋がる来世の中に浄土を求めながら、現世を現世として自覚しようとするのが浄土教であって、共に輪廻説を断ち切ろうとして生まれたものだと著者は指摘します。

 また別の箇所では、「禅と念仏は全く違うもののように見えるが、宗教心理学的には同じような意識現象を生じる。たとえば念仏を何百声とつづけると、一種の三昧境である念仏三昧に入るのだ。そうなると坐禅をして一心に打坐し三昧境に入るのと経験的には同じようになる」とも述べています。
 ただしそうだからといって、禅者が、無字の公安を棄てて、いたずらに念仏を唱えることを白隠の言葉を用い、戒めているとも言います。
 「白隠は厳しい念仏三昧に対してはこれは禅と同じだと見るが、禅門にいながら坐禅をせず、志が怠惰で、見性の眼(仏性を観る眼)なく、禅定力なく一生を送り、臨終が近づくと急に念仏者になり、にわかに浄土を願い、無智な男女に対して、いかめしそうに長い数珠を爪先であやつり、声高く念仏しながら、念仏こそ浄土をへ行く最高の教えだと説教するえせ念仏行者をどこまでも邪道と決めつけるのだ。こんな念仏禅の輩は死に絶えたらよいのだ。白隠禅師が求めたのは徹底である。透徹である。一に徹して純一無雑に修行すれば、禅も念仏も全く同じだというのだ」と。

 私は、今までにも何冊か禅についての入門書などを読んできました。この本はその中でも、最もわかりやすいものだと思います。鈴木大拙自身が書いた本などもありますが、読んでわかればそれに優れた書であることは間違いないからその方が良いのですが、やはり最初読むにはちょっと難しいと思います。
 この本は、禅の手引書としては私のお薦めの一冊です(理解未熟でこんな事を言うのはおこがましいとは思いますが)。

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