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書評(平成19年08月31日)

『太平記鬼伝—児島高徳』
(火坂雅志著・小学館文庫)

 最近はご無沙汰しているが、太平記と三国志に関わる本は、数年前まで、毎年必ず何かしら読んでいた。契機は両方とも、吉川英治の小説である。太平記の方は、吉川英治の「私本太平記」の他、山岡荘八の「新太平記」など、関連本は、もう2,30冊位は読んでいると思う。

 その中には、佐々木道誉や楠木正成などを主人公にしたものもなどもあった。しかし児島高徳を主人公というのは意外であった。名前だけは何度も聞いたことがある。本屋でこの本の背表紙を見た時、さてどういう人物だったかな、と思い返してみても全然思い出せない。それだけに興味が惹かれ、買って読んでみる気になった。

 この本によると児島高徳は、備前児島の児島五流山伏の筆頭、尊滝院の頼宴の三男だそうだ。頼宴は、備前邑久郡豊原庄の武士、和田備後二郎範長の娘をめとり、三男一女をもうけたが、高徳はそのうちの三男にあたった。高徳は幼少の頃から、三人兄弟の中でもとりわけ利発だったので、これに外祖父の範長が目につけ(範長自身には男子がなかった)、養子にもらい、和田家の跡目を継がせたものだった。
 高徳はその後も、児島五流山伏とのかかわりを続け、その頭のようになったようだ。

 児島高徳が世上有名な逸話としては、後醍醐天皇が隠岐へ流される途中、山陽道の船坂峠で救おうとしたが失敗、院ノ庄の美作守護所の桜の木に、
 天莫空勾践(天勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすることなかれ)
 時非無范蠡(時に范蠡(はんれい)無きにしもあらず)
と、幽閉された越王勾践を救い出したその范蠡の故事を刻み、隠岐へ流される後醍醐天皇を救出せんことを誓った話と、実際に元弘3年2月後醍醐天皇を隠岐から救出するという活躍した話である。

 しかしこの後醍醐天皇の島抜けまでの話は、この小説のほんのはじめの頃の話で、後は知られざる南朝方の名将としての話で占められている。
 作者は、高徳が児島五流山伏の頭として、南朝方について各地で戦った記録や、彼の先にあげたような出自などを調べ上げ、この小説の構想を練ったようだ。

 太平記の数々の場面を知っている(自称太平記ファンの)者としては、たとえ400頁を越す作品であっても、普通はこれぐらいでは、ちょっと物足りない感じがするのだが、この本はこれで十分纏まっている感じがした。確かに小説のあちこちで、高徳に関係ない場面は何の遠慮も無く端折ったりしている。数年以上飛ぶ箇所が何箇所もある。それでもあまり気にならない。

 作中に出てくる実在以外の登場人物の使い方や設定もなかなかうまい。彼の山伏仲間である兵部房をはじめとした面々。尊氏が使う甲賀者で、高徳が数度にわたる激闘を行う黒田主、恋仲となる白拍子・小観音などなど、色々な時点でうまく盛り込み、あまり事績が知られていない児島高徳を主人公としたこの小説を、充分鑑賞に堪える作品に仕上げている。

 「高徳は、立川流の文観上人から、“螢惑星”という世に風雲を巻き起こす相があるといわれ、同じ相が足利尊氏にもあると知らされる。やがて後醍醐天皇は尊氏に追われ、南朝を起こす。」(Amazon.こ.jpの「BOOK」データベースの本の紹介文より)

 そのような時代の変化の中にあって、高徳は、利得で動くのではない。裏切りを嫌い、後醍醐天皇への信義を貫き、足利尊氏から何度も誘いを受けるが断り、尊氏方と戦い続ける。彼は各地に転戦して72歳で亡くなったようだが、建武の新政時の武将の中では、稀有の人物といえるかもしれない。その苛烈な忠義一筋の生涯は、楠木親子や肥後の菊池一族と比肩すべきものかもしれない。

 勿論小説であるからフィクション(虚構)の部分も多いと思うが、今までほとんど知られざる人物であったのを、光をあて1つの佳品として仕上げたのは意義がある。太平記ファンとしては、もっともっと色々な人物がピックアップされ再認識されれば、太平記自体もさらに面白さが増すように思う。そうなることを願う。

 太平記ファンの方にも、そうでない方にもお薦めの一冊です。

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