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書評(平成19年09月22日)

『清佑、ただいま在庄』
(岩井三四二著・集英社)

  岩井三四二さんの本は、以前『村を助くるは誰ぞ』を読んでいるが、それ以来ではなかろうか。最近では『難儀でござる』が安倍晋三首相が、お薦めの書として採り上げて話題となったりした。私も、新進気鋭の歴史小説家として注目している作家ではあるが、今回2冊目をやっと読んだ訳である。

 今回は室町後期1500年前後の話。ある京の大寺が和泉の国に所有する庄園・逆巻庄に新しく代官として赴任した僧・清佑の事件録という形をとった小説である。
 清佑はまだ若い20代の僧で、今まで寺の外の事はほとんど何も知らずに修行と学問に励んできた。勿論今回代官としての仕事は初めてで、任期は2年。前任の正元坊猛海からは、アドバイスとして、村のものに対して“あなどらず、恐れず”と忠告して去っていった。

 前任が去っていったその日から、理想に燃える清佑はしたたかな村人との間で、吉書初めの日取り、夫食米や種籾の貸付の返却に関するやりとりで鬩(せめ)ぎあう。
 当初清佑は、村人に自分の技量を試されていると思い、頑なに、年貢や貸付の返済を全てきっちり行おうとする。しかし庄園内の村人と対立したままでは、代官役は立ち行かない。政所の地元出身の役人の代表ともいえる公文を勤める三郎が、庄内の巡回に誘い、一所に廻ってみて実情を知るにつれ、状況にあわせ少しずつ改正も行う。
 (私は、後漢の西域都護として有名な班超が後任に充てたアドバイスの言葉“水清ければ魚棲まず”を思い出してしまった。)

 また代官は、政所の長として行政的なことのほか、勿論庄内の司法的な役割、裁判もするし、事件の捜査、犯罪者の追捕なども行なわなければならない。
 庄園内の事だけでない。この当時は、台頭してきた武士や悪党による庄園の押領が絶えなかった。この逆巻庄は寺の領地であるので、公家の庄園とは違い天罰を恐れてあまり押領は起こらなかったが、周囲の庄園は殆どなくなってしまった中、この庄園を狙う隣の地頭井村氏など油断はならない相手であった。

 この小説に出てくる「つくり沙汰」などという物というか行為も、読んでいてすごいと思った。隣の領地を訴訟に勝って獲得するために、人の記憶がなくなる何十年という先を見越して、訴人・被告双方馴れ合い芝居の土地訴訟事件を起こす(ここでは、逆巻庄に自分の家来を入れて、その者と井村氏が争い、井村氏勝ったとする些細な事件)。そして幕府の印鑑つきの証文を手に入れる、つまり偽造証書ではない、本物の印鑑が押された証文を得る。何代も先を見据えて計画され、人々がその事件に対する記憶がなくなった頃(ここでは約80年)、この証文を利用して、逆巻庄のこの土地は、昔は私ども井村一族の土地であったのを、隣の逆巻庄に押領された土地ですと訴える。

 何代も後の子孫に受け継いでまで隣地を狙おうとする武士の執念も見事というしかない。一所懸命という言葉があるが、この時代、武士達が、土地に執着し、いかにしたたかに領地を広げていこうとしたか、この時代の油断も隙もならない生きることの厳しい状況がよくわかる。

 また代官は、きめられた年貢を大寺にあげるためには、旱魃や大雨などまでも対処しなければならず(具体的には雨乞いの主催や上(大寺)への減免の嘆願)、読んでいて本当に大変だなあと感じた。
 このような天候異変を村が蒙(こうむ)ると、近隣一帯の田畑の収穫はあがらず、この庄園を狙う周囲の武士の動きも注意しなければならなくなる訳だ。そしてこの小説では、隣領地の地頭井村氏が、今度は幕府への訴訟などでなく、実力、つまり武力にものをいわせ侵蝕しようとする。そういうわけで、この本のクライマックスというか巻末の話は地頭井村氏との「合戦」である。

 この逆巻庄は、本当にあった庄園かどうか私は知らない。たとえ架空の庄園であっても、時代は色濃く反映しているのだろう。岩井氏は、歴史上の人物などの視点からではなく、当時の庶民の立場から活々とした群像を見事に描き、沢山の好著を書いてきている。この本も、おそらく十分時代考証がされ、当時の民衆の姿・生き様を描かれたものと思う。
 帯紙にもあるように“生活の苦しさに喘ぎながらも、腹のうちをみせない村人たちとの、丁丁発止の駆け引きを、鮮やかに描く短編連作”である。

 現代の日本の時代小説は、民衆の生様を描くのは、その殆どが江戸時代が対象であり、そうでなくとも都市の町民の姿である。今までの歴史小説・時代小説とは少し違う小説も、今後どんどん出てきてほしいと思う。
 お薦めの一冊です。

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