このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
『寡黙なる巨人』 (多田富雄著・集英社) |
免疫学者の多田富雄氏については、私も10年ほど前から知っていた。哲学者の山折哲男氏との共編の『人間の行方』や、南伸坊氏との共著ともいうべき『免疫学個人授業』などを通してである。最近、脳梗塞で半身不随に陥っているという話は聞いていたが、まさか金沢でのこととは知らなかった。 脳梗塞に陥ったのは2001年5月2日のことという。思い起こしてみると、あの年の5月3日は確か私は友人と、河北潟放水路の海への出口の堤防のところで釣りをしていたはずだ。著者は、脳梗塞に陥って金沢医科大学に運ばれたという。石川県の方は、大抵知っているのだが、河北潟放水路出口付近と金沢医科大学とは数百mの近距離である。ということは、私はこの著者が生死の境をさまよっているのもしらず、釣りをしていたことになる。 またここの病院はその数年前まで、私の叔母が栄養士長をしていた病院でもある。何かと縁が深い病院だ。不思議な巡りあわせだ。 この本は、免疫学の世界的権威にあり、精力的に活動されていた著者が、突然、脳梗塞により半身不随になり、言葉もしゃべれなくなるという地獄の底に落とされたよう衝撃と絶望を、幾度も死を望みつつも、その深淵から再生した一年間の闘病記録「寡黙なる巨人」と、その後6年間に書いた随筆を加えたエッセイ集である。 巨人とは、その事件後、自分の中に生まれた新しいもう一人の自分を、著者が「巨人」といっているのだ。「寡黙なる巨人」とは、打線が繋がらないという意味での読売巨人軍の「寡黙なる巨人」という意味では、勿論ない。また偉大なという意味での「巨人」でもない。病気後は、そのもののために、何をるにも(元気な頃のように)思い通りにいかず、鈍重で障害となりはするが、確実に今までの自分とは違う何かが、無限の可能性を秘めて胎動してきたような感じを著者は、「寡黙なる巨人」が自分の内に成長しつつと表現し、それがタイトルとなった訳だ。 この本で初めて知ったことだが、リハビリとは、元々の意味は尊厳の回復ということらしい。そういう意味では、著者のリハビリは真の意味でのリハビリに近いのかもしれない。3つの病院でリハビリを続け、死にたいという願望から、自分の内に寡黙なる巨人が胎動するのに気付き、元気で活動していたころより、生きることを実感し、このように著書を物したりして充実した人生を送っている著者の姿には、尊厳に近いものを感じる。 私の家族は(私が独身なので)、80代の父と70代の母という2人の年寄りだが、今のところ介護が必要とかいう状況にまでは至っていない。今は草葉の陰の祖父や祖母も、私が会社に勤務しているころ、それもあまり介護で心配をかけるという程のこともなく亡くなったので、あまりこのような「病牀六尺」の状況は知らない。そういう意味では勉強になる。今後の参考にもなろう。 また後半のエッセイで、免疫学者として、いわば医学者としての立場から、自分のリハビリ経験から、日本の医療の問題点を突いた話も、色々参考になった。私は小泉改革にはかなり肯定的なのだが、これを読むと色々と問題点もあったようだ。 障害者のリハビリの診療報酬改定(最低180日間)も、障害者の立場にたってみれば確かにおかしい。日本でリハビリが充実すれば、入院費や薬剤費など医療費は逆に減るわけだから、その方向に進んでもいいはずだが、リハビリは医療機関や医療メーカーからすると儲からないという理由などもあり進まないのも一因のようである。酷いものだ。 著者は、診療報酬改定に抗議して署名活動など続け、再改定に持ち込んだが、厚生労働省の官僚により、それを無効にするかのような条件を付け加えたり、保険をもらえるにしても医者の手続きを面倒にしてその気をなくさせたりするという狡猾さをみせる。こういう事を色々教えられると、やはり厚生労働省というか、日本の官僚というものは、相当酷い野郎達だなーという気がした。 日本は今後益々高齢化が進む。私の家もあと何年かで介護の問題は必ず出てくるであろう。それだけにできるだけ多くの方に、読んでいただきたい1冊である。 それから厚生労働大臣の舛添氏に、是非とも読んでいただきたいて、厚生関係の施策の参考にしていただきたい1冊でもある。 |
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