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能登の城・砦・館
〜No.2〜

 ● 熊木城跡 (中島町谷内)
 熊木川の川谷が沖積平野にさしかかる地点で右岸に迫った丘陵上に位置する。城の上(しろのうえ)・桝形(ますがた)・城の跡(しろのあと)などの地名が残り、空堀や土塁で画された三ヶ所程度の平坦面(郭)が確認され、連郭式縄張りを持つと考えられるが、詳細な調査は行われていない。
 なお近くに中世墳墓群の上町マンダラ(かんまちまんだら)遺跡が所在する。
 「三州志」によれば熊木城は2ヶ所存在するといいます。1つは中島村の殿山(とんにゃま)城で、熊木将監の居城だったもの、もう1つは、上町村領(谷内村)の貝田(かいだ)城で、城主は不明とする。しかし「鹿島郡誌」は、その逆の説を採り、貝田城跡は、熊木将監の居城で、殿山城跡は、鎌倉初期に長谷部信連が一時居住したのが、後、貝田城の出城として利用されたとする。
 文献史料上の確証はないが、遺構の規模からみて貝田城が熊来氏の城砦であった可能性が強く、殿山城もその関連施設であったろう。「長家譜」によれば、天正5年(1577)3月能登攻略を進める上杉謙信が、「熊木中島城」に斎藤帯刀・七杉小伝次・三宝寺平四郎・内藤久弥を配置したが、同年5月16日謙信が越後へ帰った隙をついて七尾城の長綱連勢が反撃に転じたため熊木城は陥落、斎藤帯刀以下の主将は降伏あるいは自害、誅殺されたといいます。しかしこの熊木城は中島の殿山城であろう。「武芸小伝」に、斎藤安芸守好玄はもと能州熊本(木)城主であったとするのは、あるいは斎藤帯刀のことかもしれない(能登志徴)。

 ● 西谷内城跡 (中島町西谷内)
 熊木川上流の狭小な谷平野を望む丘陵の斜面上に位置する。主郭のほかに、二の郭・三の郭の計三ヶ所の平坦面からなる連郭式縄張りをなし、西側は急崖となり、郭は空堀で区画されている。各郭の規模は、主郭が約80m×70m、二の郭が、約90m×40m、三の郭が約100m×90mである。
 「三州志」によれば、当城ははじめ畠山家継が居城したが、後、長綱連の家士・国分五郎兵衛が住んだという。当地は釶打(なたうち)村の西方のうちにあたり、村域の大半は守護能登畠山氏の直轄地であったから(気多神社文書)、一族の家継が在城したという伝えは信憑性がある。家継の系譜については定かではないが、家の通字からみて戦国中期の畠山大隅家俊の関係者であった可能性が大であり、家俊の姉が蓮如の室連能尼であることから(反古裏書)、本願寺の家に繋がる家であったとも推測できるが、家継の実在性に再検討の余地もあり詳細は不明である。
 なお国分氏は戦国末期まで
釶打の西方に50貫文の土地を持っていた土豪で、永禄2年(1559)9月25日の惣鎮守熊野権現奉加札(藤津比古神社蔵)に、国分氏嫡家が米2俵、庶家の福五郎が米2斗、左右衛門が銭40文をそれぞれ納めたことがみえる。元亀4年(1573)1月28日と3月8日の畠山義胤書状(寸錦雑記)によると、能登から出奔中の義胤が木田左京亮を味方に引き付け、本意を達し帰国後には供衆として奔走した恩賞に「国分知行分抱内三万疋」と「国分熊石丸知行分一円」を宛行い、諸役を皆免とする旨を約束した。しかし義胤の能登復帰は実現しなかったため空手形に終わっている。木田氏が国分氏の知行分を獲得することに執着した理由は不明である。
 天正4年(1576)と推定される熊野権現棟札(藤津比古神社蔵)に「地頭国分備前守慶胤御代 奉行新保左介兼家」とあり、国分氏が釶打村の地頭的立場にあったのがわかる。国分氏が畠山氏の直轄領地の代官的地位にあったことの反映と思われ、同氏が西谷内城を畠山氏から受け継いだとする伝えは釶打代官の請負によって釶打支配の拠点であった同城への入城が実現したのかもしれない。
 しかし翌天正5年9月、七尾落城に伴う畠山氏の滅亡によって国分氏は釶打の支配を失い、代わって上杉氏に帰服した畠山旧臣の佐脇源五がその支配を上杉氏から委ねられていた(気多神社文書)。
 この間の同5年5月10には上杉方の土肥次茂が「富木之内釶打村国分左兵衛分50貫」のうち30貫文を馳走分として熊来の江尻の浄念(真宗坊主)に与えていたことが記されている(浄蓮寺文書)。
 国分氏は後、鹿島半郡を領有した長連龍に仕えることになり(長文書)、それが戦国期に畠山被官であったにもかかわらず、「三州志」で長綱連の家士と伝えられる理由であろう。


  金頸城(別称:向田城) (能登島町向田)金頸城跡といわれる能登島町向田の城ヶ鼻岬
 向田城ともいう。向田の入江北東岸の岬、通称「城ヶ鼻(じょうがはな)」(標高約25〜40m)に所在し、七尾北湾一帯を視野に収める。三方を海に臨んだ崖に面し、南側の尾根筋を空堀で画して、大小6面の平坦面(郭)と、これに付属する腰曲輪から構成される梯郭式縄張りで、自然地形を最大限に利用して構築している。
 城域の総面積は約1.
haで、最も大きな郭は約610平方mを占める。なお痩尾根で連なる約80m前方(北側)にも3つの小郭があり、当城の出丸的性格の遺構と考えられる。
 文和2年(1353)8月、南朝方の桃井兵庫助・長胤連らを討伐するため、能登守護吉見氏頼の嫡男修理亮詮頼を大将とする軍勢が七尾湾を渡り、同月29日長胤連の館に押し寄せて館を焼き払ったため、胤連勢は金頸城に立籠り、吉見軍は「一口駒崎」に陣取った(文和2年9月日「得田素章代斎藤章房軍忠状写」)。駒崎は向田地内の地名で、胤連の居館や城砦の金頸城は向田にあったと考えられる。同4年3月17日当城は、再度吉見詮頼の攻撃を受け、連日の合戦の末、6月14日の夜落城した(同年3月26日「天野遠経軍忠状」、同年7月日「遠経代堀籠宗重軍忠状」天野文書)。

  長胤連の舘跡 (能登島町向田)
 向田の駒崎と呼ばれる地に、長胤連の舘があったと伝えられている。

  細口源田山舘跡 七尾市細口町)
 鷹合川の谷平地と邑知川地溝帯に挟まれた通称・源田山にあり、一部で細口源田山遺跡と複合する。昭和52年以降の発掘で土塁と溝で画された舘跡を検出、2棟の建物群を発掘しているが、主要部分は未発掘のまま保存されている。また近接して約50基からなる中世墳墓群が発見されており、甕形蔵骨器・人骨・漆器・中国銭など多数が出土している。なお舘主についての文献・伝承は残されていない。(「細口源田山遺跡」七尾市教育委員会・1982年)

 野崎砦跡 (能登島町野崎)
 
野崎砦跡は、南北朝期に能登島東方の地頭・海人の氏が篭城用・戦闘用の詰めの城砦として創築しその後、能登畠山氏(七尾城主・能登の戦国守護大名)が富山湾や七尾湾小口瀬戸を防衛する砦・見張台・狼煙代・水軍の軍港(入江)として使用したものと考えられる。東方は断崖絶壁で海に続き、城の出入口は、西方の尾根続きで、このような地形の選定と築城方法は、南北朝期(山城創築期)の大きな特徴と考えられる。
 天正5年(1577)上杉謙信に攻められ、畠山氏の滅亡とともに破壊されたといいます。

 ● 二穴城跡 (能登島町二穴)
 七尾南湾に面した岬状の海岸台地の先端部に、二穴城跡がある。南東方に小口瀬戸を望み、北側が鞍部で丘陵に連なるほかは三方が急峻な崖で海を限っており、七尾西湾一帯が眺望される要衝の地である。「三州志」によれば、縦10間ばかり、馬場跡30間ほどの遺構があり、天正9年(1583)前田利家が能登に入部後、家臣の高畠茂助・宇野十兵(才)衛を配置したという。七尾南湾を航行する船舶の監視が目的であったらしい。しかしそれ以前に能登畠山氏の築城とも伝え、戦国期に畠山方の海上見張施設が置かれていた可能性が強い(鹿島郡誌)。

  穴水城跡 (穴水町川島)穴水城跡
 
能登の有力国人長氏嫡家の居城とされる。同氏の始祖である大屋庄園(現輪島市)地頭長谷部(長)信連が築いたと伝えられるが(長家譜)、天正6年(1587)9月22日の柴田勝家書状(長文書)に穴水城とみえる。同4年11月、能登に侵攻した上杉謙信勢は城主長続連・綱連父子が七尾に出向いた隙を衝いて当城を陥落させ、上杉氏家臣の長沢光国・白小田善兵衛を守将としたという(長家譜)。以後、穴水城付近の乙ヶ崎・新崎(にんざき)などで、上杉勢と長勢の攻防戦が展開されたが、天正5年9月七尾城内で長一族が滅亡(「上杉謙信書状写」歴代古案)。
 後、織田信長の支援を得た考恩寺宗セン(続連の三男)が還俗して長好連(後、連龍と改名)と称し、天正6年8月上杉方の拠る穴水城を奪回したが、その後も戦闘が続き、天正6年9月21日には穴水籠城を続ける好連に、織田方の柴田勝家が来春援軍に赴くまで耐えるよう報じている(前掲柴田勝家文書など)。この間、川島の永西や平野の兵衛、中居の弁慶(三右衛門)など長氏旧領の在所長衆や百姓らが好連に荷担しているが、天正6年8月16日には上杉方の舟手組が中居村に放火、百姓以下を討捕している(「長家譜」、8月17日「長沢光国書状」真清田文書)。
 天正6年(1578)11月初め好連は上杉方の海陸からの猛攻に抗しきれず穴水城を捨て、織田方の越中守山城(現富山県高岡市)の神保氏張のもとに逃れた(長家譜)。天正7年上杉勢力、上杉方から織田方に転じた畠山旧臣の温井・三宅一党に能登から追われ、穴水城に一時期、温井下総が置かれた。翌天正8年頃には、越中から能登に侵攻した長連龍の支配下に入り、同年4月大原宮末に穴水大町の代官職が安堵されている(「長連龍安堵状」長文書)。
 天正8年9月1日、長連龍が織田信長から鹿島半郡を知行として与えられると(「織田信長朱印状」長文書)、穴水城の管理は連龍の手から離れ、天正9年8月信長によって能登一国の支配権が前田利家に委ねられ、以後当城は利家の管理下に置かれた。
 天正11年8月29日には、利家が諸橋六郷の百姓中に城普請として竹200束・板60枚及び人足の出役を命じており(「前田利家黒印状」諸橋文書)、以後しばらく利用されたが、後に廃城となったらしい。
 昭和63年(1988)・平成元年(1989)の分布調査と試掘によると、縄張りの総面積は約25ha(東西約550m・南北約450m)。自然地形と空堀などで画された郭(平坦面)は、甲・乙・丙・丁・戌の5ブロックに分けられる。特に甲郭・乙郭は多数の小郭が集合しており、総郭数は約40余に達し、確認された腰郭の数も45ヶ所に及んでいる。城の中枢部は通称本丸を含む甲郭で、大小19ヶ所の郭が確認されている。試掘により一部の空堀は幅約5.5m(斜距離)の規模を持つことが明らかにされている。出土品には珠洲焼・越前焼などの陶片があった。

 
川島館(かわじまたち)跡 (穴水町川島)
 小又川下流東岸の水田に分布する西川島遺跡群の一角を占め、通称御館(おたち)と称される微高地に位置する。昭和53年(1978)・同54年西川島地区都市計画事業に先立つ発掘調査で、3間に4間の建物跡と2間に3間の倉庫跡が検出され、長氏一族など中世有力武士の館跡と推定された。出土品には輸入・国産の陶磁器類多数や「大般若経転読」と墨書した木札の他に、同銭・角釘・下駄・刀子・硯などがあった。(「西川島」穴水町教育委員会・1987年)

 
甲山城跡 (穴水町甲 小甲)
 甲入海の南側海岸台地に位置し、山麓部には内浦街道が通じる要衝の地にあたる。台地の先端部に一辺約50mの方形の平坦面(郭)があり、これに伴う三重の空堀(内堀・中堀・外堀)が認められる。付近には城内に水を引いたと伝えられる用水路(トンネル)が残されるが、詳細は未調査である。天正(1573-92)初年頃、平楽右衛門尉が居城したとされ、天正5年(1577)越後上杉謙信の侵攻により攻め落とされ、平楽右衛門尉は武連(むれ)(現能都町)に逃れ、そこで殺害されたと伝える(能登志徴)。
 上杉謙信は当城に轡田肥後・平子和泉・唐人式部らを置いたといいます。天正6年8月の長連龍による穴水城奪回作戦に際し、甲山城の上杉軍が穴水城へ加勢で船で向かったとされています(長家譜)。天正7年の上杉勢の能登からの撤退によって、畠山旧臣の温井氏らの管掌下に置かれたと思われる。
平楽氏の事蹟は定かではないが、あるいは越後の平子氏が誤伝されたとも考えられる。

 ● 高瀬城跡 (穴水町平野)
 穴水町平野から門前町への県道筋に今も「高瀬」と呼ぶ地名があり、そこが高瀬城跡と伝えられている。「長家家譜」第一巻に、13代政連の弟光連が能州鳳至郡高瀬城に居り、後に政連は戦没して、その嫡子石若丸が幼少であったために、家督を継ぎ、穴水城に移ったとあります(図録長家史料)。

 ● 此木長氏舘跡 (穴水此木)
 通称・左太夫舘跡とも呼ばれているが、現在、農家の作業小屋が建てられ、昔の面影は無い。小屋の後方に馬乗石、井戸跡がある。
 「長氏系図」によると、長谷部信連の子として、「景信二郎大屋庄此木之地頭」とあり、「長家家譜」第7巻に「1、連愛公(中略)御家臣此木左太夫家において御出生。」とある。(この場合は金沢の此木宅である)
 (参考)長連豪(つらひで)。初名は此木小次郎。安政3年(1856)生まれ。連豪の父・連潔の時、200石を受け、維新の後、本姓(長氏)に復した。明治11年大久保利通暗殺団の一味に加わり斬刑に処せられた。(図録長家史料)

  荒屋城跡 (門前町東大町)
 土地の人は通称、城山と呼んでいる。また8代正連の時「初能州荒屋に居城し給ひ、其以後同国穴水の城へ被移。後年の御領邑に御居住」と「長家家譜」第一巻にも記載されている(図録長家史料)。

 ●予備欄(***)
 

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