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町村制の施行

(1999年9月2日作成)

※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記と同タイトルのページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。


昭和14年、七尾市は1町5ヶ村と和倉町の和倉、奥原の合併により成立した。合併前の町村は、その50年前の明治22年、町村制施行に伴い誕生した。町村制下の町村は、法人格を持つ近代的地方組織であったが、明治憲法制定後の政党の浸透から地方政治を守り、中央集権的な体制を考える「自治能力」が期待された。
町村制にいたる地方制度はめまぐるしく変遷した。明治3年、十村(とむら)を郷長、さらに里正と名称変更させつつも、旧来の村役人による地方支配が続けられた。その後、同4年の廃藩置県、戸籍法制定により、新たな地方行政区画として、「区制」が施行された。翌5年2月の戸籍編成の布達によって、区版組制(現七尾市域は能登国の第1〜3、16区に組み入れられ、その中の番号と称する行政区分設定)が適用されたが、明治5年9月の七尾県廃止、同9年の石川県域の拡大(現北陸3県)等もあり、区政は矢継ぎ早の改編を余儀なくされ、住民の意志、地方の風俗、慣習が無視されたこともあり強い反発を招いた。その反省から、明治11年、区政の廃止と民選戸長制を導入した。いわゆる地方三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)体制が成立した。その後、明治14年から松方デフレ政策による農村不況の深刻化によって、地方の有力者にも反政府の動きの広がりが見られたため、明治17年、戸長官選制と戸長役場区域の拡大を含む改正が行なわれた。
町村制はこうした地方制度変遷の集大成であり、その際、旧来の町村合併が行なわれ、七尾町、矢田郷村、東湊村、徳田村、西湊村、石崎村、端村(和倉、奥原)、崎山村、北大呑村、南大呑村、高階村が誕生した。当初の合併案に対して北大呑、徳田、七尾を除く村々は、戸数資力の過少を理由に賛成したが、石崎、和倉の合併案変更、三室の崎山への編入などの希望は郡長により許可された。また、若林、飯川、江曽、下を「能登坂村」とする案は強い反対で実現するに至らなかった。各町村には、議決機関として町村会が、執行機関として町村会が置かれた。議員は、公民の中から多額納税者の意志が優先される等級選挙で選出され、町村会で町村長が選出された。町村長は、名誉職で無給とされ、大地主中心の名望家支配となり、また、郡長、知事、内務大臣の監督下に置かれ、機関委任事務が多く自主財源も乏しく、自治の領域は狭いものであった。
その後、日露戦争後の町村合併は失敗したが、大正2年の矢田郷村の一部の七尾町編入、昭和9年の和倉町成立(端村、田鶴浜村、赤倉村の合併)等を経て、同14年の七尾市成立に至った。

町村制施行後の新町村(明治22年4月)
町村名役場所在地大字数大字名戸数人口初代町村長
七尾町生駒28木、生駒、阿良、米、三島、一本杉、白銀
魚、亀山、富岡、松本、府中(町)、相生、作事
橘、大手、桧物、湊1丁目、湊2丁目、塗師、今、
川原、鍛冶、小島、所口、藤橋、府中
2,77210,253西尾 与平
矢田郷村府中13所口、藤橋、府中、天神川原、藤野、後畠、竹、
古屋敷、古城、小池川原、古府、矢田、矢田新
4412,504森井 益太郎
西湊村小島小島、松百、祖浜、新保、直津、津向、赤浦、
赤浦新
2971,513大谷 辰次郎
東湊村佐味万行、佐野、佐味、大田、大田新、殿、沢野4872,686宮本 清右衛門
崎山村鵜浦三室、鵜浦、上湯川、岡4552,482山村 北右衛門
徳田村八幡13国分、細口、白馬、八幡、下、飯川、江曽
中挟、八田、国下、千野、多根、若林
9495,018山口 精吉
石崎村石崎石崎3682,048清水 三省
端村舟尾和倉、奥原2151,143新野 吉右衛門
北大呑村11外林、小栗、(槙山)、柑子山、清水平、佐々波
庵、江泊、大野木、麻生、須能、菅沢
3852,565藤村 安寛
南大呑村山崎熊淵、山崎、東浜、大泊、花園、黒崎3902,183森 孝之
高階村町屋西三階、池崎、般若野、東三階、町屋、温井、
満仁
3331,945野村 謙三

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