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中国地方旅行(その1)

 このページは、私・畝源三郎が1997年に中国地方を旅行した時の、アルバムをもとに作成したものである。写真の枚数は、150枚以上あるのですが、あまり沢山紹介すると容量が大きくなるので、記憶に残るものだけ抜粋しました。四国旅行編と違い、月日がはっきっりしないので、何日目という表記になっておりますが、ご了承願います。
篠村八幡宮 北陸・金沢を出て1日目、高速道路を一切使わず、国道8号線を西に進み、栗東で国道1号に入り、逢坂山を越えて京都に入った。栗東から大渋滞となり、山科に入る頃はすっかりと暮れてしまっていた。それで、山科の西の国道沿いのサウナに入り、1泊。2日目、翌朝は、渋滞を避けるため、早朝から出発、国道1号を、京都の町中をまっすぐ進み、さらに真っ直ぐ、国道9号線に入り西進する。目指すは、篠村八幡宮(左の写真)。
 元弘3年(1333)5月7日、赤松氏などの後醍醐帝側の叛乱軍を鎮めるために来たはずの足利尊氏は、自分の領地である篠村で決起し、叛旗を翻しました。叛旗を翻したとは知らず、赤松などの叛乱軍を足利軍とともに、殲滅しようとした六波羅などの北条軍は、そのため大敗北します。
この篠村八幡宮は、尊氏が、決起後、京に向けて進軍している途次、源氏の氏神である八幡社があるのは有り難いと、立ち寄った所です。その際奉納した願文と矢塚や源氏の白旗を立てた旗立楊(はたたてやなぎ)(二代目)が今も現存しています。
これらの話は、吉川英治の「私本太平記」にも、詳しく描かれています。
 篠村は現在の京都府亀岡市で、今では亀岡市の歴史的遺物というと、明智光秀が建てた亀山城の方が有名かもしれない(亀山城址には寄らず)。ただし、明智氏は、美濃の名族・土岐源氏の流れであり、同じ源氏出身の足利尊氏の行動を真似て(?)、本能寺の変の際、ここを通り、老ノ坂を出てから南下せず、京の本能寺へ向けて急行したのである。現代の目で見ると、丹波の山を越えて西進し、備後に行くのが良さそうな気がするが、道の不便な当時にあっては、丹波から備後に向かうには、いったん西に進み老ノ坂を南下するのがとりわけ変わった選択ではなかったので、信長にも怪しまれなかったのである。尊氏を真似たかもしれない、光秀は尊氏とは違い、3日天下に終わった。歴史を活かすとは、難しいものだとつくづく感じます。
亀岡市を過ぎてからは、丹波篠山に向かう。篠山城の石垣を見るが、天守閣もなかったのにで、特に見るものはないかと思い、通り過ぎる。
徳川家康は天下平定後の慶長13年(1608)に実子松平康重を (茨城県) 笠間城から八上城に移し、西国諸大名に対する抑えの拠点として新城を築くよう命じました。
そして翌年の慶長14年に、わずか6ヶ月で、笹山(篠山)の丘に新しい城・篠山城(別名桐ガ城)が完成しました。この城の普請総奉行には池田輝政、縄張りには藤堂高虎を配し20の大名の夫役による天下普請が行われたのでした。先日、NHKの「堂々日本史」(2000.1.18)で藤堂高虎の城普請の技術を紹介してましたが、興味を今更ひかれた。これならば、あの時、もうちょっとじっくりと見るべきだったと後悔しています。以後、松平三家8代、青山家6代の居城として栄えました。現在、篠山といえば、あの桂文珍が出た町として有名です。
明石城 篠山を過ぎてから、山道をずっと南下し、明石に出る。明石では、明石大橋を見たいのもあったが、明石城(左の写真)と地図にあったので、立ち寄ってみた。思った以上に、明石公園も広くて、気に入った。ただ、私が行った時は、補修工事をおこなっていて、城の中には入れなかった。後で城の由来など調べたところ、元和2年(1616)に信州松本から小笠原忠政が明石に派遣され、明石城を築いたとある。
下の写真の左右とも明石公園(明石城のある公園)の写真である。あまり知られていない公園だが、非常に整備されていて、びっくりした。
明石城の庭園です。真ん中に小さく見えるのが明石城です。  明石城を見てから、姫路、赤穂などへも向かおうかと思ったが、日限をきっての旅行なのと、中学時代、それらの地域は一度訪れているので、、その後は、まっすぐ岡山に向かう。途中、景色を楽しむため、岡山ブルーラインを通る。夕方通過したので、ブルーラインではなく、ワインカラーラインになっていた。夜、岡山市内に入り、国道2号線沿いの岡山市南郊の健康ランドで一泊する。
岡山城 旅行3日目。左の写真と左下の写真は、岡山城のものである。以前、九州の熊本城に行ったことがあるが、天守閣の周囲に張り巡らしてあるのが、両方とも黒板なので、似ている感じがした。この黒い下見板張の外観から、別名烏城と言うらしい。また、最上層を金箔の瓦で葺いたため、金烏城ともいうらしい。この城は、戦国の雄・宇喜田直家の子、秀家が、慶長2年(1597)年築城したものである。創建時の岡山城は、残念ながら昭和20年の戦火で焼失し、現在のものは、昭和41年に再建されたものである。城の中には、城の歴史や色々な展示物があるので、関心のある人は、一度訪れてみるといい。
 下の写真は、
後楽園である。私は日本3大名園の全ていった事あるが、それぞれ、特徴があると思う。偕楽園では、その広大さに、私は圧倒されたが、ここでは芝生がやけに多いと思った。平坦である。私の住む石川県は金沢にある兼六園は、大した広さではないが、樹木や小高い山々がが幾つもの小風景を作り出すといった趣向の庭園である。ここ後楽園は、3大名園の中で、近くに天守閣のある唯一の公園であり、見る角度によっては、庭園の向こうに天守閣を見ることもでき、なかなかいい風景のように思えた。
岡山城後楽園
夢二の美人画です。写真撮影禁止でしたが、撮影してしまいました! 後楽園の近くに、夢二郷土美術館があった。後楽園の駐車場入り口から50mもあるだろうか。小さな蓬莱橋という橋を渡り、横断歩道を渡ると、そこが美術館である。別に、竹下夢二に興味がある訳ではないが、みやげ話に入った。郷土と言っても、生家は岡山市ではなく、自動車で1時間ほど離れた邑久町本庄である。
 今度、石川県金沢市に、夢二ゆかりの地と言うことで、夢二記念館ができるという。どれだけの縁かというと、たった2週間ということである。まー、芭蕉ゆかりの地なども、ただ単に歌を詠んだ地というのが多い事を考えれば、ましかもしれない。ただ、私にはどうしても税金の無駄使いにしか思えない。
倉敷の大原美術館 岡山で噂の岡山ラーメンなるものを食べてから、岡山を出発。倉敷に向かう。真っ先に大原美術館に行く。さすがに名品揃いである。美術の教科書で見た絵や、有名な作家の絵が沢山ある。私は自分が美術が得意という事もあるから、名前を数多く知っているということもあるかもしれないが、美術に対して興味のない人でも、コロー、ゴギャン、ロートレック、エル・グレコ、カンディンスキー、梅原龍三郎、岸田劉生などの名は聞いたことがあるのではなかろうか。
 左下は、美術館の中庭から撮影した大原美術館である。また、下の写真2枚は、大原美術館の前や近くの蔵が建並町並みを写したものである。少し作られた感じがしないでもないが、せれでもこのような町並みにはやはり好感を覚える。
 美術館や蔵の町見物を終えた私は、大して腹は減ってなかったが、岡山ラーメンと同様有名な、倉敷ラーメンも食べてみたくなり、場末のラーメン屋に入る。岡山ラーメンを食べてから数時間しかたっていなかったので、我慢して腹に入れたせいか、あまりうまいとは感じなかった。そこで、土産に箱に入った倉敷ラーメンを数箱買った。

倉敷の大原美術館中庭倉敷の蔵倉敷の美術館前の町並み
福山城倉敷を出てから、福山城に向かう。ここは、私が好きな幕末の老中筆頭・阿部正弘の居城として知られるところだ。ただし、彼の伝記を読むと、彼が実際にこの城に居たのは1年程のようである。城は新幹線の福山駅の真北にあるから、行った事の無い人でも、遠くから眺めた人は多いのではなかろうか。
阿部正弘は、日米和親条約時の老中筆頭である。彼の評価は、色々と分かれるようだが、私は彼を非常に高く評価する。最初のペリー来航後、各大名や武士・学者などから対応方法に関し広く意見を集めようとしたため、徳川の権威を損なう幕府始まって以来の失策と酷評する向きもある。実際、これ以降、尊王攘夷運動が盛んになり、幕府は権威を失っていくのだが、それは幕府が外国の脅威から、日本を守るため、最大の努力を払ったため、国内の反幕府勢力の鎮圧にあまり勢力を注げなかったことも原因にあると思う。私としては、あの意見徴収は適切な処置と思う。何にしても、現在の歴史教育では、幕末の幕府の人間を馬鹿呼ばわりして、その活躍をあまり認めていないが、彼らがいなければ、日本は今ごろは外国の植民地になっていたんのではなかろうか。
付け加えておくと、幕末に活躍した、将軍・徳川慶喜を一橋家の養子としてその後の道をつけたり、島津の騒動を解決させて島津斉彬を藩主とするように仕向けたのも彼である。彼が意見を聞いた人(それにより道を付けてやった人)の中には、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂、福井の松平春嶽などがいる。また彼が抜擢した人の中には、勝海舟、日露交渉などで活躍した川路聖謨、江川坦庵、高島秋帆、岩瀬忠震、永井尚志などの開明的な幕末の日本を救った幕府の重要人物が殆ど揃っている。これは、やはり彼の人を見る眼の確かさと、思い切った決断力を物語る証拠と言えよう。
阿部正弘の銅像福山城 ところで、福山城について少し記します。この地に限らず中国地方全土は、もともと毛利家の勢力範囲でしたが、毛利輝元が西軍につき、関ヶ原で敗れた後、毛利家はご存知のように今の山口県にあたる防長2州へ移され、芸備2州には、そのあとに福島正則が入った。福島氏も信濃国川中島に移され、ここ福山のある備後東南部は、水野氏がはいります。石高は10万石でした。福山城は、初代藩主水野勝成が、元和5年(1619)に福山に入り、元和8年8月に完成させた城です。水野氏が5代続いたあと、わずかの期間(約10年)松平忠雅が、入りましたが、その後、阿部氏が入り10代続きます。有名な阿部正弘は7代目です。阿部家は、正弘以外にも老中など幕府の顕職についた人物が何人かいます。
現在の福山城は、再建されたもので、地上6階、地下1階の鉄筋コンクリートです。内部には、福山の歴史を辿る展示品、水野家時代、安部家時代に分けての展示、城関係資料など数多くの展示品があり、なかなか充実しています。また、安部家関係の本を沢山売っており、ファンにとっては必見の場所と言えるでしょう。
福山城
音戸の瀬戸と音戸大橋(写真真ん中の赤い建造物) 福山を後にした私は、呉に向かった。呉といえば、昔、戦艦大和を作った海軍の軍港及び造船所があったところだである。叔父がいわゆる予科練出身の海軍のパイロットで、真珠湾などにも出陣したこともあり、興味のある町である。
呉に入ってからすぐ高島台公に向かう。途中、呉造船所を右手にみて、郊外にある休山を自動車で登る。休山の南の方に高島台公園がある。高島台公園内には、音戸ロッジという国民宿舎や、レストハウスなどもあり、じっくり近辺を楽しむための施設が色々あって便利だなという気がした。右の写真は、昔、太政大臣となり絶頂期にあった平清盛が、瀬戸内海航路の開発のため、切り開いた
音戸の瀬戸で、高島台公園の展望台(約標高200m)から撮影したものです。写真の真ん中の赤い建造物は、判別しにくいですが、音戸大橋です。螺旋状の音戸大橋も近くで眺めると、なかなかきれいです。
左下の写真は、高島台の展望台に立つ
平清盛の銅像(日招像)で、扇を持っているのは、この音戸の瀬戸を開鑿工事していた時、西の海に夕日が沈みそうになるのを、清盛がここに立って、扇で招く動作をしたところ、夕日が呼び返され、日没が伸び、1日で切り開いたという伝説に基づいて造られた銅像だからです。
一番下の写真は、高島台の展望台から見た呉造船所です。また、この写真ではよくわかりませんが、実は自衛隊の艦船が数隻見えました。手前の展望台のすぐ下に見えるアーチ状の煉瓦の遺構(ちょっと写りが悪いですが)は、ここが昔、海軍の砲台跡だったためであり、軍港を米軍の空襲から守るための重要な使節であったのだろう。
この展望台は、本当に見晴らしがよく、この日は曇っていたのだが、それでも四国まで見渡せた。
高島台公園を後にした私は、音戸大橋を渡り、江田島に向かった。ここには、昔、海軍の将校を育てた有名な海軍兵学校があったと聞いていたので、それを捜して島をぐるぐる回ったが、結局、見つからずあきらめた。(ちなみに、舞鶴にも海軍の学校があったが、あれはチーフエンジニアを育てる海軍機関学校であった。)
江田島を回った後、もとの道を戻り、呉に出て、呉からは広島呉道路を使い広島に向かう。広島に入るころには、どっぷりと日が暮れた。国道沿いのお好み焼き屋で夕食を摂る。広島は、実は以前、着たことがあるので、そのまま通りすぎ、厳島に向かう。しかし、厳島にはいかず、国道2号線佐方SAの駐車場に自動車を止め、車中泊した。
高島台に立つ平清盛の銅像高島台に立つ平清盛の銅像
高島台から見た呉の造船所

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