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中国地方旅行
(その3・萩編−1)

 このページは、私・畝源三郎が1997年に中国地方を旅行した時の、アルバムをもとに作成したものである。写真の枚数は、150枚以上あるのですが、あまり沢山紹介すると容量が大きくなるので、記憶に残るものだけ抜粋しました。四国旅行編と違い、月日がはっきっりしないので、何日目という表記になっておりますが、ご了承願います。
宮島を出た後、その日は自動車で小郡まで走ってそこに泊まった。
翌日は、下関まで行き、そこで史跡など探すが、大してないと考えたので、海岸沿いに北に向かい少し郊外の所で釣りをする。夜は、また下関の町に戻り、24時間サウナで泊まった。
 そしてその翌日は、海岸沿いに北上、釣りをところどころでしながら、夕方には、長門市街地少し手前の国道と海岸に挟まれたホテルの予約が急遽とれたので、そこで泊まった。そしてその翌日は、早朝から萩にむかった。
 萩市街地に入った私は、市の観光協会横の駐車場に、車を止めると、貸自転車屋を探した。近くの新堀というところに面した所にすぐ一軒の貸自転車屋を見つけて入った。中に入るとやているのかいないのか、わからない暗い状態で、どういう訳か、肉用の大きな冷凍庫もあった。肉屋も兼ねているのだろうか。「御免ください」と数回奥に向かって声をかけると、60才か70才くらいの、鼻の下の両側にピンと立った立派なカイザル髭を生やしたおじいさんがでてきた。背筋も伸びてなかなか立派な感じの人である。今思うともしかして、長州藩士の家系の人だったのかもしれない。
 自転車を一日借りる手続きをして、そこで萩観光案内図ももらった。その地図をもとに、まず木戸孝允の旧宅へ向かった。


木戸孝允(後の桂小五郎)の旧宅の玄関から見た写真である。現在、指定史跡になって管理されています。幾松夫人の写真が掲げられた部屋


(誕生の間)この部屋で木戸孝允は生まれたということです。↑この掛軸の「今日」という字は、まだ和田小五郎だった幼年時代のもので、朱書きで「以っての外よろし」と書いてあります。
 簡単に彼(木戸孝允)の経歴をのべましょう。天保4年(1833)6月26日、呉服町江戸屋横丁にすむ食禄20石の藩医で和田昌景の息子として生まれました。彼が8才の時、隣家の150石の藩士・桂九郎兵衛の養子となり、九郎兵衛の死後桂家を継ぎましたが、養父母死亡のため、以後もずっと生家にすんで育ちました。そういう意味では、彼の生家といった方が正しいかもしれません。松下村塾の生徒ではありませんが、17才の時には、藩校明倫館で吉田松陰から学んでいます。30才の頃から藩の要職につき、国事に奔走しますが、32才の時(1864)には池田屋事件が起こりますが現場でなく京都の藩邸にいたため、運良く逃れます。そして同年、禁門の変(1864)で長州が敗北し、京都から追われると、但馬の方へ愛人(後の夫人)幾松を連れて逃れます。その翌年(1864)には、長州へ戻ります。そして坂本竜馬と面識をもちます。この年藩命により名を木戸寛治(孝允は実名)とあらためます。さらにその翌年(1865)、坂本竜馬の仲介により、薩長連合の盟約を結びます。この年、名前をさらに木戸準一郎と改名。その後の活躍は、語り尽くせぬほどです。これらの功績により明治以降は、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の3傑」といわれています。
青木周弼の旧宅 一番左の写真は、有名な蘭方医の青木周弼の旧宅内部の写真である。周弼は、漢方医学を修めた後、長崎に出てシーボルトに師事、蘭方医学を学んだ。長州に帰り、藩主慶親(よしたか)の侍医となり、また藩主に献言して医学校好生館を建てた人としても有名である。
また明治期の有名な外交官である青木周蔵の家でもあります。といってもわからない方は、最近、ペルーで日本大使館人質事件がありましたが、あの時人質となった青木大使の家といった方がわかりやすいかな。
田中義一旧宅跡 青木家を出た後、近くの金毘羅神社を参拝し、青木家の裏へまわった。すると、今度は、総理大臣になったこともある田中義一の旧宅跡があった。またこれより100mほど行ったところの公園にも、大きな銅像がたっていた。手前左の写真がそれである。
 左側の写真は、重要文化財・菊屋家住宅です。毛利輝元の萩入城に伴い山口から萩に移り、城下の町造りに尽力し、屋敷を拝領したのがはじまりで、代々大年寄格に任命され、藩の御用を勤めてきた家であります。またしばしば藩の御用屋敷として借り上げられたこともありました。
 阿子ケ浜に藩士や民衆のための惣固屋を建ててすまわせたので、
阿子ケ浜を菊ケ浜と称するようになっています。この建物は、現在重要文化財に指定されています。
 上の2枚は、高杉晋作の家である。田中義一の家が、菊屋家の並びなら、これまた、田中義一の家の通りを挟んで斜め向かい側にあった。高杉晋作を説明しようと思うと、長くなりそうである。一番有名なのは、奇兵隊の結成であろうか。私が幕末明治維新の中で一番好きな人物なので、書けどもつきぬものになりそうである。その心を抑えて努めて簡略に経歴を記す。
 天保10年8月20日に、ここ菊屋横丁に藩士高杉小忠太の長男として生まれた。明倫館で文武を学び、松下村塾に入り松陰の指導を受けた。塾では、久坂元瑞と双璧といわれていた。文久元年(1861)藩主世子の小姓役に抜擢され、翌文久2年には、上海渡航をする機会にめぐまれ、帰朝後攘夷論の急先鋒として活躍しました。文久3年の馬関の外国船の攻撃にあたっては、自ら
奇兵隊を組織し、同隊監を命じられた。奇兵隊は、日本初の士農工商を問わない国民的連隊で、後に藩内でこれにならうものが続出し、反幕勢力の軍事的基盤となった。ついで一時脱藩し、野山獄に入れられたが、元治元年の四国連合艦隊の馬関来襲にあたって許され再起用されて、講和条約の正使として活躍した。禁門の変後、藩首脳が俗論党により占められたため九州などに亡命したが、再び力士隊など20数名という少数を指揮し長府功山寺で挙兵した。不可能と思えたクーデターはまさに回天のごとく、疾風の勢いで諸地を転戦、その頃山県が指揮していた騎兵隊なども結局加わり、俗論党を一掃した。第2次長州征伐を前に高杉は、薩長同盟に尽力し、慶長2年の第2次征長軍を迎えて全藩を指揮した。自らは、幕府方の海軍を、その頃は非常識とされた夜襲を決行して敗走させ、また小倉口を責めて連戦連勝した。しかし、翌慶應3年4月14日、享年29才で赤馬関で病死した。
 私が思うに、彼の、この当時では狂行とも思われた功山寺の挙兵がなければ、その後の歴史は大きく変わったと思う。西郷も長州と同盟を結ぶ気になったのは、このクーデターの成功をみて同盟する価値はあると思ったからであった。
 短く説明しようと思ったが、やっぱり長くなてしまった。スミマセン!
左の写真は、長州藩家老益田弾正の旧宅である。左の写真は玄関の方から写したもので、物見櫓がみえる。右は庭から見たものである。
益田家は、禄高1万2千60余石である。益田弾正(右衛門介)は天保4年に生まれている。松陰からは兵学なども学んだことがある。元治元年、藩の尊攘派が京都回復を叫んで上京した時、鎮撫の命を受けて上京したが、結局、禁門の変では戦う。、敗れて国司信濃、福原越後の両家老とともに帰国するが、11月征長群の圧力を受けて謝罪を表すために上記3家老とも切腹させられた。それと引き換えに長州征伐は中止させられた。あまり知られていない人物だが、長州藩の維新討幕の中ではこの事件は、重要な意味をもった。

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