このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

中国地方旅行
(その5・山陰編−1)

<出雲大社>
 萩(前作・中国地方旅行その5萩編−2)を出てから、一路出雲へ向かってひた走った。かなりの時間がかかって夜遅く大社町についた。
 実は津和野へも行きたかった。何しろ、津和野は元々能登国守だった吉見氏が移って開いた城下町であり、あの森鴎外の故郷でもあり、さらに城下町の風情を色濃く残していると聞いていたからだ。
 しかし限られた残り日数を考えると、あまり色々寄れないのであきらめた。島根の三田と呼ばれる3都市なども同様である。出雲についたのは深夜近くではあったが、電話で色々問い合わせたところ、何とか1軒泊まれるビジネスホテルを見つけて、そこに泊まった。
 翌朝かなり早くから出雲大社に出かけた。しかしカメラの電池不足で写真は左のように暗くなりうまく写らなかった。お店屋さんを探したが、まだどこも空いていないので、一旦出雲大社を後にした。なぜなら写真を撮影することがかなりの目的の旅であったからだ。近くの海で釣りをして、お店が開きそうな時間帯まで暇つぶしをした。
 適当な時間で釣りを終え、もう一度出雲大社へ行った。早朝は雨上がり状態で曇っていたが、もうこの頃は晴れ上がり、参道なども乾いていた。何かしらその奥床しさに感動した。伊勢神宮へ行った時もそうだが、何かこのような古代からある大社にくると、自然に根差した素朴さあふれた日本人の宗教観の良さをあらためて実感させられます。
 私は、まだ30代後半と若いですが、皆さんもおそらく御想像の通り、神社仏閣巡りは大好きなのであります。それだけにここに来て私は、日本人が一度は来るべき場所に来たという達成感も味わった次第です。
<松江城>
 出雲大社を出てから宍道湖北側沿いの国道431号線を通って松江に入った。湖畔にビルの陰を写してまさに水の都といった感じであった。城山公園に入ってからまず天守閣に向かった。
 案内パンフレットによると、山陰地方に唯一現存する天守閣だそうである。一名を千鳥城ともいい、慶長16年(1611)出雲の領主堀尾茂助吉晴が5年の歳月をかけて築いたそうである。黒い板張りなどは山陽の岡山城にちょっと似ているが、少し小さ目の天守閣といった感じだ。内部も昔のままに残してあり、なかなか良かった。
 左の写真は、天守閣から見た松江の風景である。この写真では、霞んでいて判別つかないが、確か宍道湖が見えたのを覚えている。天守閣からの眺めというものは本当に、いいものだ。高層ビルからみる景色はどうも、ただコンクリートブロックの乱立だけが見える場合が多く、私は好きでない。
 ああいう風景が好きな人物は、人の良さ・情緒に欠け、他人を踏み台にしてでも成り上がる事を喜びとする人物ではなかろうか。
 天守閣を出てから、同じ城山公園内にある松江郷土館に入る。ここはもと、松江の迎賓館として機能したところのようだ。中には、色々郷土の風俗に関わる古い時代の民芸品が展示されていたり、迎賓館時代の椅子やテーブルがあったりと、明治維新を偲ばせる記念館であった。
 城山公園内の風景だが、木々の間から天守閣が見える風景が気に入りカメラで撮った。しかし、写真にしてみると天守閣はわかりにくいですね。皆さん、真ん中あたりに天守閣が写っているのがわかりますか?
 左の写真も、上と同じく城山公園内の風景です。
 公園内から一旦お堀の外へ出て、堀沿いの道を武家屋敷に向かって歩いていくと、この(左写真)ような風景に出くわします。実際は、もっと奇麗なのですが、これまたどうも写真の写り具合が悪くて・・・・・・ (^^;;
 これがお堀に面したところにある武家屋敷です。松江藩の600石程度の中級の武士が住んだ家だということである。
 萩で見た長州藩の家老益田家物見櫓に似ている感じだ(物見櫓は無いけど)。大して大きさが変わらないような感じを受けるところを見ると、長州藩も、東北米沢の上杉藩と同様、大藩であったのを小さな領域に押し込められたたため家老といえども、ちいさな屋敷で我慢していたのかもしれない。
<小泉八雲記念館>
 城山公園を出てから、武家屋敷へ行くまでの間に、実はこの小泉八雲記念館があった。小泉八雲とは、皆さんもおそらくご存知だと思いますが、明治期の日本を海外に紹介した人物として最も有名な作家のラフカディオ・ハーのことである。私も、何冊か読んだ。「耳無し芳一」などの怪談も面白いが、日本人の特徴などを書いた評論なども、非常に鋭く、日本人論の先駆者とも云える人物だと思う。
 小泉八雲旧居の玄関である。明治23年に日本にやってきた彼は、東大のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となり、松江へ来た。ここで武家の娘セツと結婚し、日本を紹介する文筆活動をセツの協力も得ながらはじめることとなる。
 左の写真は、旧居の室内だが、彼の代表作の怪談などは、妻セツに聞いてきた昔話しを自分の言葉で語らせ、それを聞き取って、小泉八雲なりにまとめ仕上げたという。この部屋で、そのような会話というか、語り手と聞き手のやり取りがあったのであろう。
 これは、小泉八雲の遺品などを展示した部屋だが、撮影禁止とあったが、こっそりと撮影してきてしまった。ゴメンナサイ!m(_"_)m
 小泉八雲旧宅を出た私は、車を月山冨田城に向かわせた(国道432号線経由)。途中、八雲村という名前の村を通った。私は、それまで八雲は単にハーンに音が似た字を宛てただけだと思っていたが、松江の地元に近いこの村の名にも由来の一つがあるのかもしれない。


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