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アーネスト・サトウの見た幕末の石川

〜「一外交官の見た明治維新」の石川県関係抜粋〜

(1999年9月22日作成)

このページは、イギリスの明治時代の有名な外交官・日本文化研究家のアーネスト・サトウの著書『一外交官が見た明治維新(下巻)』(岩波文庫)から、石川県関係の箇所を抜粋した。明治維新と言っても、半分以上が幕末の見聞録であり、石川県の記述の箇所も、慶応3年、明治改元の一年前の話である。七尾に上陸した目的は、七尾を新潟の代港として、加賀藩に開港してもらう為の外交交渉であった。幕末明治維新を記述した書物の中では、外国人の書いた貴重な資料である。翻訳文ではあるが、その簡潔でスッキリした文体には、一流の外交官であることを証明していると思う。これを機会に一度全文を読んでみることをお勧めする。文中、一部分かりくするため、カッコ書きなどで、私が註を加えた箇所もあるが、ご容赦願いたい。

《以下石川県関係の文章》

<第19章から>
(慶応3年:1885年)8月7日早朝、われわれは約1万フィートの立山を中心とする越中の高い連峰が見える所まで来ていた。11時には目指す港の入口へ着いた。この港は、湾に向かい合っている相当大きな島(能登島のこと)の影にある。サーペント号が先頭に立って、測量船としての任務を遂行しながら進んだのであるが、沢山の浅瀬があちこちにあるので、私たちは大いに警戒しなければならなかった。七尾の町の手前に投錨した時は、もう12時半になっていた。
当時の七尾は人口8千から9千を擁し(ただし当時七尾町と言った市街地のみ)、別名を所口と言った。加賀の大名(前田慶寧(よしやす))の汽船数隻が出入りしている重要な港で、阿部ジュンジローという町奉行が支配していた。阿部は長崎へも行ったことがあり、いくらか英語を知っている青年であった。長崎留学は当時としてはまるで洋行して外国の学問を修めて来たぐらいに思われたものだ。だが、この男は主君の名代として口をきくだけの権限を持っていなかったので、領主の首都金沢から佐野(サノ)と里見(サトミ)という2名の重役が来るのを待った。この両名は8月9日にパジリスク号へやって来て、5時間も長い間艦内にすわりこんで話した。いや、話したと言うよりも、ハリー卿に話しこまれた形であった。
話題の中心は、七尾が新潟の代港として適当かどうかということであった。加賀の人々の恐れたのは、その結果七尾が昔の長崎や、新潟の場合のように大君(タイクーン)(徳川将軍のこと)に取上げられることになりはせぬかということであった。しかし、彼らはあえて公然とは口にしなかった。この土地の住民は外国人に接することは慣れていないとか、産物の輸出に伴い一般の物価が高くなるから大多数の者が反対するであろうとか、加賀の大名としては七尾を外国貿易港にしたいのだが、それにしても勿論領民の意向に添うようにしなければならぬとか、色々口実を並べ立てた。
そこでハリー卿は、これらの点については直接問題にせず、新潟が停泊地としては不便なこと、それには七尾以外に新潟に近い港はないという「事実」などを、よく説明したその間に卿は、佐渡の夷港(えびすみなと)を新潟の代港とするために視察してきたなどということは、全然口に出さなかった。卿が天候の加減で新潟の砂州が荒れて停泊が危険な場合でも、当地の大名は外国船が七尾に停泊することにあくまでも反対するのであろうか、と聞くと、相手は、人道上から言っても、お互いの親善関係から言っても、大名はこれを拒むことができないだろうと答えた。それなら、外国船はその場合長時間何もしないで七尾に停泊してはおられぬから、積荷はひとまず陸揚げし、新潟へ輸送できるようになるまで倉庫に保管することになろうが、それに対して何か反対はあるか、と聞くと、いや、おそらく反対はあるまい、人道のために、と答える。そこで、ハリー卿は、それでは一体誰が必要な倉庫を建てるのか、と聞くと、それは外国側でも加賀藩側でも、都合の良い方ににしたらよかろうと答えた。では、外国人が陸揚げした品物を七尾の住民が買いたいという場合、その売買を防ぐのは至難な事ではなかろうか、と言うと、それはそうかもしれない、そんな事を許可すれば七尾は外国貿易の港になってしまうが、しかし必要な品物を全部前もって注文したり、新潟へ輸送する積荷の中から必要品を選り抜いて買うというのでなければ、異議を唱える訳にも行くまいとの返事である。実際のところ、彼らとしては、大君政府の援助なしに港の取締りや商品の保管をやることができると考えていたのである。七尾は、ずっと昔から前田氏の領地であった。
加賀・越中・能登三国にわたる唯一の良港で、どうしても手放すことのできない土地であった。彼らは、幕府との共管で七尾の行政に当たるのを好まず、さりとて全然幕府の手に渡してしまうことはなおさら欲しなかったのである。
ハリー卿は、相手の意見に同意を示し、私と一行の者を大阪へ派遣する方法について話しをすすめた。これは、私たちが江戸を出発する前に公使館で論議されたものであった。しかし、新潟奉行がハリー卿に、七尾から陸路を通って帰るつもりはないかと尋ねた時、大いに外交的な我が長官は、そんな考えは毛頭ないと答えたのであった。
役人達は、ハリー卿のこの提言に誠意のある態度を示さなかったので、卿は彼らに向かい貴殿らの態度は外国人に対する友誼を欠くもので、他藩がわれわれに示した感情とは大いに異なると、厳しい口調で非難した。卿の露骨な言葉は役人の気持ちを痛く害した。彼らは大いに不機嫌になり、黙りこんでしまった。そして、多分本当であったろうが、腹が減ったからと言って帰って行ってしまった。
役人たちが艦を退去するや、ハリー卿は即刻、ミットフォードと私を陸路大坂へやり、自分はバジリスク号で長崎を経由して横浜へ帰航することを決心した。私たちは、勿論卿の場合よりもずっと身軽にこの国の旅行ができるので、この機会にまだ外国人が通ったことのない日本内地の一部を見ることができると思うと嬉しくてたまらなかった。そこでさっそく、私は町奉行に会いに上陸した。ブロック(中佐)はサーペント号と共に、当地に残って、湾をくまなく測量することを命じぜられた。私たちより一日早く新潟から来ていた提督は、サラミス号に蒸気を起こして三時半に出港し、それから2時間後にバジリスク号もつづいて港を出た。
長官は、最後の瞬間まで私たちを手放したがらず、港口まで送ってきた。港口で、私たちはサーペント号のボートに携帯品を移した。ところが、ボートが陸へ向かって漕ぎ出した途端に、バジリスク号が浅瀬に乗り上げて、私たちに向かって戻って来いと信号した。そんな事があったので遅くなり、私たちが最後にようやく長官のご機嫌取りから解放されて、岸に上がったのは夜の八時であった。
私は上陸すると、一度ならず泊まったことのある宿舎へ行った。間もなく、旅行の手形を万端引き受けた佐野と阿部が訪ねてきたが、そこへまた江戸の外国係の役人2名もやってきた。この2人の役人は横浜からハリー卿について来ていた者だった。卿は、ブロックのやる港湾測量に便宜をはかるようにと言って、この両名の役人を当所へ残すことにしたのであるが、彼らは私たちが陸路大坂へ行くと聞き、おそらく私たちの行動を探るためだろうか、一人を同行させてくれと言いに来たのだ。加賀の大名の領内だけならよいが、その先へ行けばきっと困ることができるだろう、荷物や駕篭の人夫を雇うも不便だろうし、ひょっとすると襲撃されて殺されるようなことがあるかもしれぬ、などと言った。また、実のところ自分達外国人の役人は、陸路貴殿らの行く所へはどこへでも同行するように命ぜられており、日本の法律では、外国人が旅行する場合にその世話を兼ねて必ず外国係の役人が同行することになっている、とも言った。これに対し私は強硬に、諸君は大君の閣老からハリー卿の世話を命ぜられて来たのだから、あくまでも卿の命令に従わなければならない、と答えた。ハリー卿はこの役人に対し、特別の仕事のため七尾に残れと命令されているのだし、私たちも長官から役人を同伴してはならぬという厳命を受けていたのである。また、われわれとしても、加賀の大名や、加賀のすぐ向こうに領地を持つ越前の大名が、あらゆる手段をもって旅行の便宜をはかってくれると思ったし、他の道中についても、この両大名が京都滞在の大君の家臣に手紙を出して、必要な訓令を発するように手配してくれ、また通過する沿道の町々の役人に直接命令を伝えてくれるものと確信していたのだ。
外国係の役人が口にした法律云々については、そんな事があるものかと、私は堅く信じていた。精々の所、そんな意味の慣例があるだけで、それに従おうと従うまいと、こちらの勝手だと言ってやった。相手も、もはや議論でだめだと観念したらしく、こんどは私の感情に訴えようとして、もし貴殿らが単独で出発されるなら、身共たちは江戸の重役に対してまことに相済まなぬことになると哀訴した。しかし、それも甲斐がなかった。とうとう、彼らはこの問題から手を引いて、それならいかなる困難に遭遇されようとも、当方に決して責任がないことを認めてもらいたいと言った。私は即座にこの要求をいれた。彼らは、おそらく腹の中では、ブロックの世話もこちらのしったことかと舌打ちしながら、退去したのである。私たちは、とうとう勝ったわい、と思いながら寝についた。<第19章終わり>


<第20章から>
翌朝、佐野と阿部の2人が、旅行の用意が万端整ったという嬉しい知らせをもってきた。そして、先々幾多の不便もあろうが、それは我慢していただきたいと、色々の言い訳をした。この2人は、私とミットフォードには上等な駕篭を、野口と、ミットフォードのシナ人召使の哲学者じみたリン・フーのために普通の駕篭を用意してくれた。護衛は、富永(トミナガ)という士官の指揮する、長い棒を持った20名の人達で、いずれも両刀を帯びていた。私たちは、八時半に出発した。海の方を眺めると、バジリスク号は、もはや出発した後で、サーペント号が悠然と停泊しているのが見えた。外国係の役人は姿を見せないので、もう断念したものと推定した。そこで私たちは、長官からも、大君の役人からも、また他のいかなるヨーロッパ人からも完全に解放されて、日本の全く見知らぬ地方の冒険の旅に出立したのである。どのみち、どうにかなるだろうが、とにかく私たちにとっては全く物珍しい冒険の旅であった。
七尾の町を離れると、私たちはすぐに駕篭からおりて、歩くことにした。焼け付くような暑い日であた。20名の護衛は、いずれも歩きながら片手で扇を使い、片手の手ぬぐいで額の汗を拭(ぬぐ)った。やがて、われわれは大いに優待されていることが明らかになった。なぜなら、まだ一時間半もあるかにうちに休憩して、甘い西瓜と、お茶の接待を受けたからである。桃も出されたが、ばかに未熟だったので、手に取るだけの勇気がなかった。また一時間も行くと、再び休まなければならなかった。みんなが、いやに丁寧だった。行き会った農夫は土下座した上、かぶり物を脱がされた。前日ハリー卿が佐野とその同僚をしかりつけたあとだったので、こんなに厚遇されようとは全く思わなかった。
道は、次第に細くなってゆく谷の間を通っていた。あぶら菜と麻が沿道に栽培されていた。1時15分に、小ざっぱりとした宿屋へ立ち寄った。そこで休んで昼寝をあつらえたが、この宿屋で結構な食事を出してくれた。一睡してから、3時にそこを出て、別の谷間の道を下りながら先を急いだ。そして4時半に休憩し、6時半にはとうとう18マイルを踏破して、その夜の宿泊地に到着した。
ここが、
志雄の村で、小川の岸にある景勝な土地である。谷の入口に近いので、だんだん高く重なっている山々をそこから見上げた眺めは、日本に数多い佳景の一つであった。一風呂浴びた後で、何でもございませんがと丁寧にわびる言葉のあとから、結構な晩の食事が運ばれた。
翌日は16マイルほど歩いて
津幡に達し、ここで街道に出た。この街道は、ここの大名の領地の端から端へかけて、あまり海岸から遠くない所を通っている。これまでの護衛が立ち去り、新しい一隊がこれに代わった。この辺は日本でも比較的に人口の多い所なので、私たちは大いに住民も好奇心の的になった。森本では、街道の家々の軒先で人々が折り重なって見物し、また道路のわきは、筵を敷いてすわりながら見ている人々でいっぱいだった。
この地方を過ぎると、やがて
金沢の白い城壁が松林の上から覗いているのが見え出した。町が見える所まで来ると、私たちは再び駕篭に乗り、手近な一軒の家へ運び込まれた。私はこの家で里見と、もう一人恒川(ツネカワ)という名の役人に会った。
見物の人々が大勢集まっていた。中には、私たちのいる家の見通せる蓮池の泥の中に入ってまで、好奇心を満足させようとする熱心な者もいた。この家では、美味しいメロンとリンゴと、町の裏山から取ってきた凍雪などが出された。壁際に金屏風をつらね、卓上に果物や菓子を高く盛り上げ、上座の背後の壁の窪んだ所には、手紙を書く時の用に備えて、きわめて美しい金蒔絵の立派な硯箱が置いてあった。それはほとんど使用されることがなく、ただ儀式的に用意されている品であった。
役人は私たちに、住民によく見えるようにここから徒歩で行くことにして欲しいと言ったが、旅の服装ではあるし、いささか埃によごれ、また旅の疲れも出ていたので、駕篭に乗ることにした。道路は、あらゆる階級と年齢の見物人で人垣をつくっていた。その中には大変奇麗な娘も何人かいた。
途中に、もう一軒の上等な休憩所が用意されていた。われわれは前もって、旅館までまっすぐ行くことを頼んでおいたのだが、そこへも無理に立ち寄らされてしまった。そこを出て、今度は物見高くはあるが、きわめて秩序正しく町民が人垣を作っている街路を進み、一つの橋を渡った。それから何度も右や左に曲がった後、ようやく宿舎に着いたのであるが、これまでの騒ぎと、儀礼ずくめのために、いささかぐんなりした。
里見が玄関で私たちを出迎えた。彼は接待の監督の為に先回りしていたのであった。部屋の前を幾つか通って、奥の大きな部屋に通されたが、そこはビロードの毳(けば)の大きな絨毯が敷かれていて、シナの卓子や、仏教寺院の高僧が盛大な儀式の時に腰掛けるような緋色の椅子が用意されていた。間もなく宿の主人が現れて、あたかも2人の王様にでも挨拶するように畳へ頭を摩り付けて、御辞儀した。煙草やお盆を運んできた召使は、いずれも頭が床につくほど低くお辞儀してから、それを両手に高くささげて卓子の上に置き、絨毯の端まで後ずさりして、引き下がる前にもう一度頭を床まで垂れた。
私たちは、仰々しい恭敬な態度で一人一人風呂場へ案内された。それから訪問者に接するため、携行した中の一番上等な衣服(新しくも、上等でもなかったが)と着換えた。最初の訪問客は、大名の特使で、この暑さにもかかわらず、つつがなく、御無事に御到着、恐悦に存じますと、口上を述べた。ミットフォードは、大いに威厳をつくって、大して暑さも感じなかったと答えた。これまでの厚遇と親切に深く感謝しているので、貴藩の大名を訪問して直接謝辞を述べたいと言うと、使者は、「主人は折あしく病気でございます。さもなくば喜んでお目にかかりましょうが」と答えた。ミットフォードは、大名が早く全快されることを祈ると言った。実のところ、大名が外国人2名に面接するには、礼式上の問題についてきわめて重大かつ面倒な決定を要するので、仮病を使ったのだろうと私は推測した。使者は、貴殿たちのために小宴を設けて、お相伴するよう主君から仰せつかっていると言い添えた。ミットフォードは前よりもさらに美辞を連ねて、ハリー・パークス卿からのメッセージ(実際は長官から託されたものではなかったが、それをしないと手落ちになる)をでっちあげ、加賀の大名と人民に対して変わることのない友誼を誓いたいと述べて、使者は勿論、一座の人々に多大の感銘を与えた。私たちは、暑気のため健康を害するのを懸念して藩主がわざわざ遣わしたという医師を紹介された。
以上のような挨拶がすんでから、饗宴に移った。それは、これまでに述べたものと同じだが、豪奢な点と料理の品数の多いことにかけては、はるかに前述のものをしのいだ。接待する側の日本人が、どうも椅子では窮屈らしく見受けられたので、日本の流儀によって家具を取り片付け、畳にすわって杯の献酬を容易にしようではないかと、われわれの方から申し出た。よもやまの雑談のうちに大分時間もたち、人々の頭の中に多かれ少なかれ酒がまわってから、私たちは政治上の話題をもちだした。そして、大勢の人々と互いに打ち解けて談じ合ったのである。
日本の家屋は、秘密の話がしにくいようにできている。障子の後ろや襖の陰には、常に誰かが立ち聞きしている。だから、もし密謀を企てようとすれば、庭の真ん中でやるのが最も良い。そこなら盗み聞きを防ぐことができる。しかし、この場合はそうしたこともできかねたので、聞きたい者には聞かしてやれ、という気になった。密談の要旨はこうであった。
−−加賀藩は外国人との貿易を望んではいるが、公然と七尾港を開港場とすることは欲していない。それは、もし公然たる開港場にすれば、大君の政府は七尾港を加賀藩から取上げるに違いないからである。しかし、七尾を新潟の補助港にして外国船を停泊させ、貨物をこの港に陸揚げさせることには異議がないから、そうした場合はそれに伴って他の一切の事も自然に解決するだろう。もし大君の政府からこの問題について藩の意見を求めてくるならば、それについてあいまいな返事をしておくつもりである。
こうした意見に対し、勿論イギリス側としては、加賀の大名の希望にそって行動するつもりであるし、貴藩の利益を少しでもそこなうようなことは決してしないつもりだと、私たちは答えた。これは饗応者を大いに満足させた。彼らは私たちに対して、あたたかい友情を身にしみて感じると言明した。それから、細かい点は私も覚えていないが、江戸へ帰ってからも秘密を保ちながら互いに通信することにし、その方策などについて協定した。双方とも秘密を厳守することを申し合わせて、この密談を終わったのである。

やがて、非常に豪奢な寝具が運ばれた。絹綿をつめた絹や縮緬(ちりめん)の柔らかい蒲団を敷き重ね、蚊を防ぐために大きな紗(しゃ)の網(ネット)が吊るされた。ついで宿の者が、緑茶を入れた急須に茶飲み茶碗をそえた小さい盆と、喫煙に必要な道具を蚊帳の裾からそっとすべりこませて、どうぞお休みくださいと言った。朝になると、目の覚めぬうちにまず、快適な生活の要素であるこれと同じ品物が前夜と同様にそっと持って来てあった。
午前中は、漆器や磁器を選びながら時を過ごした。前夜の話では付近の山に登ることになっていたが、差し支えができたので、代わりに金沢の港の
金石(かないわ)へ行くことにしたから承知してもらいたいと言ってきた。金石は金沢から5マイルばかり離れた所にあるので、3時頃の馬で出かけた。馬と言っても蹄鉄の打ってない、至って見すぼらしい小馬だった。厚い黒い紙を革の代用に使ったヨーロッパ式の鞍と、よく鞣(なめ)されていない、すこぶる堅い革の手綱が付いていた。野口は日本式の立派な馬衣をつけた小馬に乗ったが、乗馬のできない例の哲学者じみたシナ人のリン・フーは駕篭に乗せられた。目的地までの距離はごくわずかなのだが、上等な身分の人間は疲労を感ずるだろうと気をまわし、途中に2ヶ所、金石に一ヶ所と、計3ヶ所の休憩所が用意されていた。
港町と称する金石も、行ってみれば期待に反し、名もない川の口にあって、天気が完全によくない限りは全く使い物にならない、開けっ放しの投錨地であった。
その晩の食事の時、私たちは2人の役人とさらに立ち入った話をしあった。彼らは、前夜の密談に熟考した末、七尾を開港した暁には貿易額の幾分かを大君の政府に上納するのが最善の方策であるという結論に達していた。そうして置けば、加賀藩としても密貿易の罪に問われる心配もないだろうと。私たちもこの考えに賛成し、江戸に誰かを代表として派遣して、大君の政府や外国の代表と交渉させたらどうかと言った。
日本の内政問題に話が移ると、彼らは大君の政府は勿論存置せしむべきであって、薩摩や長州は他の諸藩と提携して、全然これを廃止すべしと言っているようだが、それはよろしくない、しかし同時に、大君の政府の権力に対しては当然制限を加える必要があるだろう、と述べた。彼らは、私のパンフレットを読んでいて、あの説には全く同感だといった。そう言われて見ると、私たちとしても加賀藩の意見には完全に同意であると答える以外はなかった。実を言うと、加賀藩は政治思想の中心地からかなり遠ざかっているので、南西諸藩の抱負を認めてそれに共鳴するということはできなかったのだ。彼らは、日本中でも無知と非文明の本場だと常に思われてきた北部の海岸地帯に、孤立の状態で置かれていたのである。したがって、自藩の事にしか関心をもっていなかった。加賀の大名(前田慶寧)の有する土地は、他のいずれの藩主の領土よりもはるかに大きな歳入があると見られている。そのため、加賀藩は世間一般からその貫禄を認められており、自らもそれに満足していた。したがって、日本の政治組織の変革なぞは加賀藩にとっては殆ど益するところがなく、心の底では政治の現状維持で満足していたのである。
これに反して、イギリス公使館は、天皇(ミカド)が再び日本国民の元首の地位につくことにできるだけ尽力し、その上で条約に誰も反対することができないようにするため、勅許を得ようと決心していたのである。そこで、こうした目的の為に大君政府の組織を改革して、主要な大名(というよりもむしろ藩)をして、権力の分配にあずからしめる必要があったのだ。
宿の主人は私たちをもっと長く引き留めておきたかったようだが、一定の期日までに大坂に到着する必要があったので、そうもゆかなかった。そこで8月14日の朝、金沢を立ったのである。主人は行きがけに自分の親戚の店に立ち寄って、万一の用意に「紫の雪(しせつ)」という特許薬を買ってゆけとしきりに勧めた。この薬の主成分は硝石で、それに麝香(じゃこう)で香をつけたものだが、筋肉の病気には大抵効くと信じられていた。
街路は、またも熱心な見物人でいっぱいだった。金沢の町を離れてから駕篭をおり、絵のように美しい城郭が眺められる高台の料亭に立ち寄って、お別れのご馳走にあずかったのである。お城の周囲には沢山の樹木が繁茂していて、それが公園のように見え、普通castle(城)の名前で呼ばれているヨーロッパの厳めしいfortres(城砦)とは大いに趣を異にしていた。この料亭で魚を食べ、酒を飲んで一時間を過ごした。そして、この訪問の前までは何の交際もなかった加賀藩の人々と永久に変わることのない友情を誓ったのである。
その日は
松任(マットー)で昼食をとり、多数の人々の傾聴する前で町長と長い間雑談した。夕刻小松(コマツ)に到着したが、これで20マイル踏破したわけだ。途中何度も足をゆるめたり足を留めたりして休息した時間をも勘定に入れると、これでもかなりの速度で歩いたことになる。翌日は金沢と大聖寺領との境界を通過し、ここで護衛の者が交代した。大聖寺の町では街路が奇麗に掃き清められ、見物の群集が家々の軒先に行儀よくすわっていた。その中には晴れ着を来て、銀の花鬘(はなかずら)をつけ、奇麗に白粉をぬり、奇妙な金属光沢を皮膚に与える紅花の染料を唇につけてた良家の娘さんたちも大勢混じっていた。
ここで、これまで同行して来た加賀の紳士岡田(オカダ)と新保(シンボー)の2人に正式に別れを告げた。ミットフォードのシナ人召使もみんなと一緒に別れの席に連なったが、シナ人のリン・フーは、叩頭(こうとう)ばかりしている日本の礼儀作法は了解できないと、哲学じみたことを言っていた。
さらに行くこと約3マイルにして、ついに前田家の領内を離れ、越前領へと足を踏み入れた。
(以上で、「一外交官の見た明治維新」の石川県関係の記述は終わりである。)

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