このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

能登出身の仙人-2
臥行者
(ふせ(り)のぎょうじゃ)

 臥行者生没年不詳)は、奈良時代の高僧泰澄和尚の弟子である。泰澄(682年?〜神護景雲元年(767))白山など多くの山岳信仰の山を開山した人物といわれ、山岳信仰の祖といわれる。
 臥行者のことは、金沢文庫および密谷本『泰澄和尚伝記』によると、泰澄21歳の702年(大宝2)能登島の小沙弥が弟子とり、臥行者と名づけられた。その頃から臥行者は、「飛鉢(ひはつ)の呪法」がききめをあらわすようになったといいます。

 和銅5年(712)、この臥行者(ふせのぎょうじゃ)が、日本海を航行する船に、越知山(丹生郡朝日町越知山)から佐波理(さはり:銅と鈴の合金)の鉢(→仏具)を飛ばして布施を求めていた。山頂から思いっきり飛ばした鉢が、鳥のように飛び、船の船頭の足元に届くのを見て、越知山から大声で「われらの師匠のため、鉢一杯の布施を頼み申す」と言うのである。その法力に驚いた船頭たちが、鉢に米を入れると、鉢は空へ舞い上がり、越知山山頂の彼のもとに戻っていくのであった。

 ある時、出羽の船頭神部浄定が都に納める米俵を積んで、越知山の前の海を航行していた。
 臥行者がいつものとおり鉢を飛ばして布施を求めると、船長はこれは出羽の国から京へ運ぶ官米だからといって断った。すると、鉢は越知山に飛び戻り、鉢の後に続いて米俵も次々と飛び去っていった。神部浄定は驚き、近くの港に船を寄せると、越知山山頂に駆け登った。

 山頂にあった小さな寺の前庭に行くと、米俵が積み上げられていた。船頭は、臥行者に詫びてから、奪われた米は官米であり、それを弁償するために、これから出羽の百姓たちが苦しい暮らしを続けなければならない、と哀願し許してもらいました。船に帰ってみると米俵はもとのように積まれていました。

 泰澄の人格に打たれた船頭は発心し、官米を送り届けると、都からの帰路に弟子入りし浄定(きよさだ)行者と呼ばれるようになりました。

 ところで浄定行者は、その後山中を駆けめぐって、薪を拾い、草木の実を採って泰澄に尽くすのに、兄弟子の臥行者は、昼は野山に臥し、夜は泰澄の傍らに寝転ぶだけの毎日でした。
 ある時、この越知山の小さな寺のある山頂に客僧が来た。臥行者に、寝そべってばかりいてとても修行しているとは見えないが、どうして行者と言えるのか、と詰問すると、寝そべっていた臥行者は、「修行には心の行と身の行がある。私の行は心の行である。寒風にさらされ、雪の中に臥しながら、雲の切れ間に、仏を仰ぐことができる」と答えたそうです。
 
 一方、1508年(永正5)白山本宮所属の千手院の権大僧都勝慶の撰じた『白山禅定私記』には、泰澄は越知山から加賀国医王山(いおうぜん)の岩窟に移り住り、練行したとある。また臥行者と浄定行者が泰澄の弟子となったのは、この医王山となっている。臥行者が神通力をもって空中に鉢を飛ばして海上の船に斎米を乞うていた。

 出羽国の船
頭神部浄定が米を運んで加賀の沖に差しかかると、鉢が飛んできたので海中に投げ捨てたところ、鉢をはじめ船中の俵米、櫓、櫂まで医王山へ飛んでいったという。本書では、臥行者の呪力による飛鉢伝説が、作り替えられて医王山を舞台として展開されているのである。伝承によると、金沢市俵町は、その船の俵米が飛来したところと伝え、戸室山(とむろ)は飛ぶ櫓(とぶろ)にちなんだ名だといいます。

 1777年(安永6)の序を有する『能登名跡志』及び明治45年(1912)刊の『能登島地方志』によると、能登島の祖母ヶ浦は臥行者の生母(一説には祖母または乳母)が在住した地といわれ、観音堂がある。入り江に突出した「行者が端の森」(閨行者端遺跡観音堂)は、臥行者が沖を通る官船に向かって鉢を飛ばして供米を求めたところ伝え、鉄鉢が流れついた土地が、鉢ヶ崎(今は八ヶ崎)という地名になったということである。

 能登島の現在の習俗では、生母が祖母ヶ浦の開祖といわれ、大晦日や入寂日の2月23日には住民がお参りしているとのこと。専正寺には、生母の古い座像があって、オンバサマと呼ばれている。


(参考)
  「能登島のれきし」(能登島町発行)

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