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パーシヴァル・ローエル「NOTO」抜粋・ⅩⅡ
ふたたび海へ


 能登の真ん中で白昼夢をむさぼっていた私は、出発の準備が橋の下流のあたりでできたという知らせを聞いて、正気に連れ戻された。帰りの船はくる時に乗ったような小型蒸気船ではなく、あの船はもう遠くへ行ってしまったのである。

 今度の船は、帰りのために借り切った粗末な田舎の舟である。舟を借りるのに世話を焼いてくれた好人物の宿の主人は、親切にもわざわざ船着場まで、我々2人を見送りに出てくれた。

 ほとんどの日本の小舟のように、この舟もアメリカのゴンドラとかリゾートと呼ばれている小舟に似た構造である。その設計は「舟を操るのは、立ってやるより腰を下ろしてやる方がましだ」という、人類がまだ舟を進ませる方法を考案した、以前の形式によるものである。

 これを利用した方が七尾へ早く着けるとのことであった。舟乗りたちは、ここから七尾まで海上6里、つまり15マイルはあるといい張った。私の思い違いだったかもしれないし、事実を知らなかったのかもしれぬが、実際はその半分くらいと推定した。

(畝源三郎註:このローエルの推測は間違いである。海上6里が正しい。ローエルは日本人をどっかの植民地人と同様に馬鹿にしたところが、ところどころ見受けられる。残念なことである。)

 彼らの意見を認めず、料金を負けようとも、推測される所要時間を短縮しようともしないのである。

 舟の前後にの舷側には、ピンで長い艪がそれぞれつけてあり、中間あたりには帆柱が嵌め込まれていて、必要とあれば帆をあげられる仕組みになっていた。

 帆布は布を縦に縫いあわせてある。これは日本の舟とシナのジャンクを見分ける相違点で、シナの舟の帆の縫い目は水平となっているのが特徴である。

 さて、穴水から七尾までの距離の推定については、双方で1つの妥協点を見出し円満に解決がついた。それはできる限り、艪で漕ぐ時間を短縮するという条件で、それを希望する理由はお互いに違っているのだが、双方とも自分達の理由を述べようとしないので、意見の食い違いは問題にされようにもなかった。

 そうこうしている中に、舟は両岸の差し迫った、運河のような水路を乗り出していた。

 フープの入ったスカートで魚をとっている例のお婆さん連中は、あれから数時間も経っているのに、そのままの位置でじいっと坐りこんでいた。何もせずにいることに、一生懸命になっていて、こちらの方へは目を向けようとさえしなかった。

 できることなら、その漁具の中を覗かせてもらいたいものだと思ったが、我を忘れてじいっとしている、彼女達の邪魔をするのは悪いと感じたので止すことにした。

 それにひょっとして婆さん達の無感動さが、舟乗りたちに伝染しては困ると懸念されたのである。彼らは、我々と荷物を輸送するために雇われてきたのだが、いざ仕事となると、たとえ1日かかっても平気といった態度であった。

 しかし、私には舟が少しぐらい遅れようとも、舟乗りたちの仕事ぶりがたるもうとも、是非とも見ておきたいものが1つあった。

 それは来る時に見た見張台で、その時は船の甲板から眺めただけなので、今度は何とかして接近して、ゆっくり観察したい気持ちが強く胸の底にあったのである。見張台は、対岸のあちらこちらに、灯のない灯台のように立っていたので、私の欲望は容易に満たすことができた。

 私は最初に目に飛び込んで来た艪に、舟の舵を向けさせようとしたのだが、漁師達は少しでも労力を節約しようという魂胆なので、進行方向に見える岬の裏側にも1つあるというのである。

 胸の中に立ち騒ぐ好奇心を抑えて、少し待っていると果たせるかな、岬の端を回ると、その一基が姿を見せてき、幸いにもその見張台の上には漁師が乗っかっていた。舟を近寄らせ「こんにちは」と挨拶してから「その櫓(やぐら)の上に登らせてくれませんかね」と尋ねると、櫓の上の男は心よく「さあ、どうぞ」と承知してくれた。

 梯子をよじ登って櫓の頂上に出てみると、籠の中には2人の漁師が乗っていた。2人だけでも目方は十二分にかかっており、そこへもう一人の訪問客は無理であろうに、よくも私の申し出を承知してくれたものと感謝の気持ちでいっぱいだ。

 しかし、彼らにしてみれば、見物人を一人ぐらい乗っけても、櫓は大丈夫だと信じているように見えた。梯子の役をしている横木の間隔は、ある箇所で思い切って大股を開かなければ登れぬほど広く、私より足の短い見張台の漁師にとっては、これは大きな離れ業に相違あるまいと思った。

 上に登るにしたがって、横木の丸太は細くなってゆくので、私は肝を冷やされそうな戦慄を覚えながら、やっとの思いで籠にたどり着くや、そのままその中に這いつくばってしまった。

 櫓がゆらゆら揺れ動く毎に、二人の漁師ともども、海中に放り出されてしまうのではないかと、本気になって心配したほどだ。こんな状態トップ・ヘビィ(頭でっかち)とでも言うのだろうが、言葉の巻時だけではそれがどんなものかは、実感を体験した者でなければ説明できない。

 奇妙なことには、この見張台が揺れ動いているのは、海上から望見しただけでは気付かないものである。このように見える立場によって、同一の実態が違って見える例は、今までに幾度か体験したことがある。

 その時私の視野に広々とした海浜の風景が飛び込んできた。舟から百ヤードほど離れた波打際は、少しく前方で小さな村落につづき、それからは、半分海中に没した岩石が、飛び石のように前方に連なっている。

 そしてその海岸線が果ててしまうあたりに、もう一基の櫓が立っている。これが間近に見える唯一のもので、、その他の櫓は、遥か彼方の波打際に沿って、ちょうどクモが巣を張ったように、微かな姿を見せているだけであった。ここの入江は、周辺がくまなく陸に囲まれて内海を形作っており、東の方だけが切れていて、日本海への入口が望まれる。

 傍から見た目には、この櫓は海面から20フィートくらいの高さぐらいにしか見えないだろうが、乗っている者には、それよりもはるかに高い位置にいるような感じがする。

 また二人の漁師はきわめて居心地よさそうに籠の中にいるのだが、私の偽らざる実感は、腰を据えて坐っていたいという気持ちと、一刻も早くここから降りてしまいたい気持ちの間を、往復しているといったものであった。

 しかし、ギリギリの実感というものは、ふっと全く意想外の感情に切り換えるものである。本人の気持ち次第で、この丸太ん棒の上に組まれた鳥の巣のような場所を、のんびりと快適な環境にすり替えることも可能であり、一人っきりで小説を読むにはこの上ない場所なのだ。

 美しい五月の朝のひととき、小舟を漕ぎ寄せて櫓の下に一目に触れないようにつなぎ、この巣に登ってたった一人っきりで、空中の鳥のようにじいっとしていたら、きっと新鮮な感情の中に浸れるだろう。そして慣れてしまえば、この新しい棲家に愛着の心もおのずとわくだろう。

口にはパイプをくわえ、タバコの煙をゆらせながら、ここはフランスの小説を読みふけるには最適な場所だと、私の心はある種の誘惑すら覚えている。

 自分が坐っている所が不安定であることが、小説の中身の面白味を倍加させるとさえ考えられるのだ。

 漁師達は、「有り難う」と言う、私の礼の言葉を愛想よく受け、我々の舟が遠くなってゆくのを、なかば好奇心を抱きながら見送ってしまおうと籠の中で以前の黒い影になり、半昏睡状態に戻って行った。そして彼らの鳥の巣は、艫(とも:船尾のこと)の後方へと流れ去ってゆき、だんだん低くなり、瞬間、湾を囲む山影にその姿を没してしまった。

 待ち焦がれた順風は、つに吹いてこなかった。これではタバコを一服吸う気も起きず、船乗り達ががっかりした様子だった。

 一度だけ帆柱を立て、帆をあげてみた、彼らがしばしば骨休めできるとほっとしたのも束の間、わずか数分で帆を下ろさなければならず、再び、彼らは艪を漕がねばならなかった。

 舟の周辺は美しい眺めであった。前方には鏡のような海面が広がり、舟はあたかも進行を忘れたかのようで、なめらかな微風は巨大な楯の表面のような海の面に、掻き傷のような細かい皺を。あちらこちらに作り、それは舟が静止している時でなければ近寄ってこなかった。

 低い丘陵は、幾重にも重なり合って遠景を作り、小さな漁村の聚楽が海際近くを陣取ってあちらこちらに見える。そして絵のように美しい風光の一部をなすように、ゆるやかな舟ばたの左右の二挺の艪のきしむ音が、うっとりするようなリズムの音楽を奏で、聴覚と視覚の微妙なハーモニーを織っていた。

 時折、帆を張った舟が前方からやってきてゆっくりとすれ違うのに出会ったが、私たちの目にはそれらの舟が風をゆたかに孕んで走っているのが、羨ましく見えた。またこちらと同じ方向に進んでゆく舟が、帆を張っていないにも拘わらず、すぐ側まで接近したかと思うと、見る間にこちらを追い越していった。

 他の舟に追い越されても、わが舟乗りたちは平気の様子なのでいたたまれなくなり、この事実を訴えた。すると彼らは口を開いて「向こうの舟は目方が軽いからでしょうよ」と答える始末だ。

 もともとこの種の舟を選んだ理由は、目方が軽いという特徴を買ってのことだったのに、彼らはそんな事は忘れ果てているようだ。そのように答えられて、こちらは真に受けるとでも決め込んでいるのだろうか。そのような見え透いた嘘つき連中と、その嘘を見抜いているこちらとでは、どっちが間抜けなのだろうか。

 しかし舟は絶えず目指す七尾に向かって進んでいるのは確かであり、日の長い春の午後いっぱいに、両岸の景色は舟の傍らを絶え間なく通りすぎて行った。かと思うと、今度は景色が舟の方に近寄ってきて、水路が狭くなり、しばらく水晶のように澄んだ水の上を走り過ぎると、前面がまた開けてき、和倉湾に入っていった。

 この付近はボラの好みに合わぬらしいが、他の魚たちには天国であった。イルカの一群が海面をトンボ返りして、我々の目を楽しませてくれたし、海中を覗くとクラゲの赤ん坊たちが、あちこちにさまよい泳いでいた。

 左側に目を向けると、猿島という島があった。話によると、猿を心から愛していた老人が住んでいたのでそう名付けられたとのことであった。しかし、彼が死んでしまうと、お腹をすかした猿の一族たちは四散し、今ではこの島は、屏風のように切り立った粘土質の断崖があることで知られている。

 長い年月の間に、風雨に削りとられてきたこの断崖の上面は完全に水平であり、屏風岩の名に背かず、側面もまた平坦で、断崖と平坦の両面を備えている。

 日没が迫ったが、舟はまだ湾内を走り続ける。夕闇が黒い海の底から吐き出された息のようにあたりに満ち、空気が急に冷え込んでいった。屏風岩の前を横切ろうとした時、海面を転がるような歌声が耳に入ってきた。農夫達の歌によくあるような、それは物悲しさを秘めた歌であった。

 それは島から帰ってくる舟から流れ聞こえてくるものだと分かってき、その舟は私たちの舟とは直角に交叉していた。歌声は女性の声ばかりだったのは近づいて見て分かり、舟に乗っていたのは女ばかりであった。

 彼女たちは、島へ薪にする木の枝を刈りにきたのであり、舟の中ほどには、粗朶(そだ)が山と積み上げられていて、舟の前と後で女達は艪を漕ぎながら歌っているのであった。全て目に映るものは夕闇のヴェールの中に被い隠された海の中で、彼女たちの歌声だけが、まるで思いのたけを訴えでもするように響きわたっているのである。

 歌といっても、誰でもが知っているようなものなのだろうが、夜の海の上ではそれが得も言われぬ哀切さを漂わせる。歌声は我々の左側から右側へと通り抜けてゆき、遠くなるにつれて、メロディが途切れてゆき、ついには、我々を再び真っ暗な夜の海に置き去りにして消えていった。

 舟はなおも漕ぎつづけられた。あたりは完全に暗く、寒く、風はなくなってしまったが、七尾に着くにはまだ大分かかる模様だ。力いっぱい漕ぎ進んで1つの岬を回ると、七尾の町と港の灯が、ぽつるぽつりと、陸地の突端から見えはじめてきた。そして、まず前衛部隊、ついでに本隊と船の灯火がつぎつぎに旋回し、長い行列になって進み、やがてそれぞれ定位置に着く。

 こうして眺めていると、どの灯火が近くにあるのか判断に苦しむ。真夜中に港の中に入っていくのは、神秘的なものである。昼間だったら船は遠近法にしたがって整然と差別がつくのだが、暗闇の中を這うように進んでゆくと、船の灯のまたたきだけで、船の位置を定めるのは、ほとんど不可能に近い。

 時には、最も明るい灯の船が最も遠くにあったり、見た目にはぼんやりとした灯の船が、すぐ近くにいることに驚かされることもある。他の船の位置を見極めるのは、自分の船が移動して初めて可能なのだ。

 もし、人間が宇宙空間を飛行できるとしたら、星のむらがりに出っくわした時、その中のどの星が最初に自分達の太陽になるのだろうかという、感動あふれる疑問を抱くであろう。30分程の間に、灯火は我々の舟をぐるっと取り囲み、近くの灯火は船体の様々な部分を照らし出してみせたが、遠くのものは光りだけしか視野に映じない。また、海岸沿いに立ち並ぶ茶店は、銀河を眺めるようである。

 しかし、あたりの灯火の間を縫いながら進むにつれ、それらは星たちにくまどられた影絵に変わっていった。舟はそれに沿って迂回し、ついに薄暗い岸壁に到着した。ここで栄次郎に宿を探させるために上陸させたが、時計は十時を指していた。私の推測した時間は、とっくに舟が湾の中ほどを過ぎる頃に通り越してしまい、船乗り達のオーバーな推測ですら、実際では短かったのだ。六時間もかけてしまった訳で、今になって私は船乗りの選択を誤まったのに気がついたのである。それにまだ航海は完了したとは言えないのだ。なぜならば栄次郎が帰ってくるまでさらに一時間以上も船乗り達と一緒に待っていなければならなかったのだから。

 退屈しのぎに、私は一人で舟から波止場に上がってみることにした。ここは何とも陰気な感じのする所で、ずうっと突端近くまで歩いてゆくと、明らかに自殺を考えているらしい一人の男が、うろついているのに出会った。しかし、彼の直面しているイキサツは、本人にとりどうしようもない所まできていると直感したので、部外者の私がどう意見しても無駄に過ぎぬと私には分かった。

 ところが、相手は私が説得をしかけようとしているとでも感じとったのか、あたふたと背を向けて立ち去っていった。それは彼の思い過ごしであり、私はその時、彼が自殺したい気持ちには寧ろ同調していたのである。たとえ、どんな理由が彼をそこまで追いつめたのかは、私には理解されなかったにしても。

 波止場では、胸の迫る思いをさせられたので、足を町の方へ向けてみたが大したことはなかった。波止場からまっすぐ続いている街路には、人影は見当たらず、町全体が波止場のような、世界の果てのような雰囲気に包まれていた。大半の家々は墓地のように暗く、障子だけがちらちら覗かれるだけで、こぼれ聞こてくる物音や、障子に映る家の中の人影などは、私を冷笑しているように思われた。そうした私の感傷をより深めるように、二人連れの男女がひそひそ話しをしながら、私の傍らを通り過ぎていった。

 宿屋探しに出かけた栄次郎は、まだ帰ってくる気配がない。数分毎に舟の繋いである所へ歩いてゆき、彼の帰りを待った。
 石畳の上に山積みにされている柳行李が「いったい、私たちは何処へゆくんでしょうね」と、行先の定まらない移民のように私に訴えかけてくるように思われた。

 私は、いたたまれぬ気がして、またしてもその場所を離れるのであった。少しでも光りらしいものの射す場所に出かけては、ポケットから懐中時計を引っ張り出して幾度となく時刻を確かめようとする私の姿は、この世の果てにいるような寂しさに満ちたものであった。

 そうこうして時間をつぶしている中に、やっと栄次郎が警官を伴って姿を現した。その警官は親切にも案内のために来てくれたのであり、真っ暗な路地を幾つとなく、くぐり抜けて、とある一軒の宿屋に我々一行を連れていった。宿屋は見掛けのよい所ではなかったが、中に入ると人間の温かさが感じられ、二人はここでやっと夕食、いや、その時はもう夜中を過ぎていたので、朝食にありつくことが出来た。

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