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畠山宗家(基国の子満家以降)
(1999年9月4日作成)
南北朝の末期に、畠山宗家の畠山基国は、河内・紀伊・能登・越中(一時は山城も)手に入れ、畠山家の黄金期を迎えた。能登一国は、基国の二男満則(
満慶)の一流に与えられ、庶流家を形成した(能登畠山氏)。基国の長男、畠山満家、その子畠山持国とも幕政に重きをなしたが、持国の子、畠山義就が妾腹の出生であったことから、持国晩年の文安〜康正の頃(15世紀中頃)に家臣団が2つに分裂する家督紛争が起こり、これがやがて応仁の乱の重要な要因となったのである。
<義就と政長の家督争い>
持国の跡目に神保氏らの老臣は(持国の弟)畠山持富の子畠山政長を擁し、細川勝元もこれを後押ししたが、変転の末、康正元年(1455)持国死去の跡を継いだのは実子の義就で、河内・紀伊・越中の3国と山城の守護に補任されている。ところが長禄4年(1460)、突如、義就は罷免されて討伐を受け、政長が4ヶ国の守護となった。義就は幕府の大軍をよく支えたが、結局、吉野の山奥へ逃亡し、政長は管領に就任する。
応仁の乱勃発に際して、山名持豊は義就の驍勇に注目してこれを召し出し、細川勝元は政長を援助して全面戦争に突入した。西軍大名のほとんどが乱中または終了時に幕府に帰参・降伏する中で、義就のみは徹底抗戦を続け、乱後は実力で河内・大和を占拠、高屋城を築いて幕府と対峙し、文明15年(1483)には畠山政長の唯一の分国・山城に侵入、これが有名な山城国一揆の原因となった。
初めは政長を援助していた細川勝元の子、細川政元は、ついに政長を見限って義就と講和することを決意し、明応2年(1493)、クーデターを起こして政長を河内正覚寺に自殺せしめ、義就の子、畠山基家を河内・紀伊・越中の守護に補任した。しかし、紀伊に亡命した政長の子・畠山尚順は、明応7年(1498)河内に攻め入って畠山基家を敗死させ、以後、高屋城の争奪をめぐってこの両派が争奪を繰り返した。その後も基家遺子義央と尚順、およびその子・稙長の間には和戦常ならず、細川家の家督争いと連動して畿内の戦乱を一層助長したのである。
しかし、まがりなりにも畠山氏が支配を続けてきた河内も、永禄3年(1560)畠山高政の時、三好長慶の猛攻を受けて高屋・飯盛両城は陥落し、ここに河内は 三好氏の領国となった。
信長入京の後、高政は河内南半分を安堵されたが、その弟畠山昭高の代に将軍足利義昭と信長の反目があり、昭高は信長の大軍に攻められて、天正元年(1573)6月、高屋城に自殺し、連綿と続いた畠山宗家も滅亡した。したがって、畠山の名跡は能登畠山氏に伝えられたことになる。
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