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性寂坊と氷見屋
(1999年8月25日作成)
「由緒町人」とは、藩がその由緒を認め扶持を与えた町人のことで、藩政初期には大変重くみられ、一般町人には憧れであった。初期所口の由緒町人には、氷見屋右衛門と酒見与右衛門の二人がいる。酒見(橋本屋)の由緒は未詳だが、氷見屋は著名である。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の悲報が、上杉勢の守る越中魚津城を攻撃中の前田利家の許に届いたのは、6月5日のことらしい。柴田勝家以 下の織田軍諸将はすぐに撤退を開始し、利家も大境(現氷見市)まで船で逃れ、大境より夜道をついて七尾小丸山に帰城した。
越後に逃げて上杉景勝の庇護を受けていた能登畠山氏の遺臣温井景隆(ぬくいかげたか)・三宅長盛兄弟らは、信長の死を知って能登奪還を企て、上杉勢の援兵3000人と共に、6月23日、石動山天平寺の般若院快存や大宮坊立玄などの衆徒(しゅと)(僧兵)に迎えられた。石動山衆徒の支援を頼み、峰続きの荒山城(桝形山)に拠ろうとしたのである。
この時、七尾の町人・氷見屋善徳(ひみやぜんとく)(善兵衛)の次男が性寂坊(しょうじゃくぼう)と名乗り、石動山に居住していた。利家は、長連龍(ちょうつらたつ)とはかり、氷見屋を通じて山中の動きを知り、性寂坊に衆徒が利家に味方するよう説得させた。性寂坊はこれを受け容れ、情報を利用し多くの勝ちを収めてきた信長の家臣だけに、利家は石動山側の動きをいち早く知って、6月25日、佐久間盛政と連携プレーで挟撃し、ついに荒山城の反信長勢力(上杉・温井景隆・三宅長盛・遊佐長員・石動山衆徒)らを破った。畠山家の旧家臣である温井景隆・三宅長盛・遊佐長員らは討ち取られ、さらし首にされたが、性寂坊はかえって逃れた石動山衆徒達にとらえられ、磔になってしまった。
7月25日(6月26日という説もある)、佐久間盛政の援軍を得て、利家は石動山を攻め、伊賀者に火を放たせた。温井・三宅などの野望を挫いて能登を確保した利家は、9月6日、氷見屋に屋敷分二斗5升と、小島村で田地三段を与え、性寂坊の位牌を立てさせて、その功に報いた。
氷見屋は、性寂坊の兄助右衛門の名を踏襲し、江戸時代を通じて由緒町人であった。三代藩主利常の承応2年(1653)、田地は後畠村に替えられ、屋敷地も所口東地子(ひがしじし)町と府中村で計150歩となる。のちには田地御印引高4石5斗は藤野村に、屋敷御印引高1斗1升1合は天神川原村に与えられている。
なお幕末には、漆屋久右衛門(能州銀座役を務め、のち漆問屋。後藤氏)と黒氏屋与衛門(近江浅井家臣。薬屋・酒屋。三野氏)が由緒町人列となったが、扶持はあてがわれなかった。
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