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七尾港の歴史(明治〜戦前)

(2001年3月3日)
(参考図書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)
「七尾ものしりガイド・観光100問百答」
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)
「七尾の歴史と文化」(七尾市)
「コンサイス世界年表」(三省堂)
「図説 石川県の歴史」(河出書房新社)

  明治初期の七尾港は、北前船や沿岸航路の基地としていつも百艘ほどの和船が出入りしていた。北前船は、主として大阪や北海道を往復し、大阪向けに米を、北海道へは米の・、酒・戸障子・藁製品を積み込んで、日本海沿いに売り歩きながら航行し、帰りには、鰊や〆糟、木材などを積み込んで、港々で売ることを仕事にしていた。また、七尾の本町の松井善四郎が石川島造船所から18トンの汽船を購入して春陽丸と命名し、七尾・宇出津間に、明治18年(1885)定期航路が開かれた。これが石川県における蒸気船の最初であろう。奥能登へは、当時、鉄道も通じていなかったので、行き来は、ほとんど船に頼るしかなかったので、七尾は重要な交通の基点であった。この定期航路の経営は、翌年、日要社に引き継がれ、日要社は後にさらに能登汽船に合併された。

(七尾港開港の経緯)
 旧七尾町で回船問屋として安永・天明の頃に大活躍する越中屋久左衛門、その後に名をあらわす若林屋勘右衛門らの後をうけて、明治初頭頭角をあらわすのは津田嘉一郎である。その頃は七尾港には五百石以上の帆船が百隻以上常時出入りしていた。これらの帆船すなわち北前船は藩政時代と同じく、南は下関から北は新潟・秋田・松前の各地を往来し、米殻・清酒・建具・藁工品などを移出し、帰路は海産物を北陸地方へ運んだ。津田嘉一郎が明治12年に2千石積の大船(和徳丸)を新造して祝宴をはったのを最後として和船の新造を見ることなく、西洋型の汽船時代に入り、北前船は姿を消すのである。

 こうして七尾港は衰退期に入り、七尾の町の経済活動も次第に停滞してくるのであるが、その間に日本は激しく変化を遂げるのである。すなわち、外国貿易は明治元年において輸入1,069万円、輸出1,550余万円という程度であったのが、明治10年には輸出入を合わせて5,084余万円、明治26年には1億7797万円、同29年には輸入1億6313余円、輸出2億1930万円と、年を追って飛躍的に伸びている。このような情勢の下に、さすがの七尾市民も眠りから覚め、開港指定運動を俄かに展開することになったのである。

 なおその背景の一つになったのは北陸鉄道会社の設立、七尾鉄道開設工事の進行であった。この鉄道会社の設立に最も力を入れたのは神野良であり、明治21年に仮許可を得ている。背景の第2は、時の政府が明治29年の帝国議会に開港外貿易港を指定する法律案を提出し、国際経済への進出を計ろうとしたことである。その間不幸にして北陸鉄道会社の計画は挫折するが、明治25年鉄道敷設法が公布され、北陸線も同26年から7ケ年工事で、国有鉄道として、敦賀・富山間を通ずる工事のスタートが切られた。

 明治29年(1896)7月の北陸線(敦賀−福井間)の開通、同年8月の七尾鉄道の着工などに触発されて、当時七尾町長だった松井善四郎や鹿島郡長だった大塚志良(おおつかしろう)らは、七尾港を軍港・商港として指定するよう国(帝国議会)に請願した。鹿島郡長の大塚は、初代金沢市長長谷川隼也の弟で、産業・経済に造詣が深かった。

 大塚は、その請願書のはじめに「本州の中央に位置して、内は南北物産の集散を掌り、外は対外的貿易の連鎖地となり日魯(にちろ)通商の衝点にあたり、尚ほ且つ進んで富国強兵の基礎を淵源し、将来有望の地位に起(た)たんとするものは、独り之を能登七尾港に推さゞるべからず、是(これ)予が七尾商港開始を意見を具する所以なり」と述べた上で、湾の南(南湾)は、本来の商港として、北(北湾)は軍港として発展させたいと結論付けている。

 大塚の案では、維新直後の交易はなお、北前船で日本海を下関から瀬戸内海に至り、そして神戸へ入港したが、鉄道(七尾線−北陸線)と連絡することにより、七尾−神戸の輸送時間が短縮され、北陸の産物は七尾に集散される。例えば北海道の産物は、七尾港から陸路神戸へ、神戸から北海道へ向かう産物は陸路七尾港へ輸送され、ここから北海道へ移出されるだろう。さらにシベリア鉄道が開通し、あるいは名古屋への縦断鉄道(金名線など)が開通すれば、七尾港は‘ここが真ん中’となり、軍港・商港としての発展が期待される。七尾港の発展は「加能両国の幸福のみならず、北陸全道の幸福にして、施(ひい)て国家幸福」であると結んでいます。七尾港は港に夢を託したが、その貿易相手港は日本海を差し挟む対岸のロシア領の浦塩港(ウラジオストック)としていました。 


 東洋の大国・清国との戦争(日清戦争・明治27〜28年<1894-1895>)に勝利した日本(政府)は、明治29年(1896)春、開港外の港において外国貿易を行う為の法律を国会に提出した(開港外貿易港を指定する法律)。当時の石川県知事三間正弘は、七尾港を指定とすべく、大蔵大臣・松方正義に陳情書を提出、その末尾に、次の様に書き加えた「独り小官の希望に止らず、県下人民異口同音に希望して止まざる所なり、閣下幸いに現今の時勢に鑑み実地の状況に照らして以って採納せらるるあらば、県下人民の感喜何をか之に加えん」と。

 こうした努力の甲斐があって、明治30年6月開港外貿易港に指定され、そしてこの年の8月1日から新潟税関の支署が、府中員外一番地において業務を開始している。こえて明治32年7月12日勅令第342号(いわゆる開港勅令)が公布され、これをもって開港場となり、同年8月から貿易事務が始まった。「第1条、従来の開港の外、左の諸港を開港とす」として全国22港とともに「能登国七尾(南湾)」が開港の指定を受けたのである。

(浦塩(うらじお)航路の開設)

 開港外貿易港指定条件の中に、「満2年毎の輸出入貨物の価格が5万円に達せざる時は之を閉鎖す」という規定があった。そこで神野良らは貿易の振興に寝食を忘れて奔走するのである。すなわち浦塩航路こそは七尾港発展の鍵であるとし、当時政府が大阪の海運業者大家七平に対し補助金を出して日露沿岸の定期航路を維持させていたのを見て、神野らはこの定期船を七尾に寄港させ、もって浦塩との連絡を保とうと計画したのである。

 そのためには七尾市民一致しなければならない、ということで、神野良・松井善四郎・西尾与平らが中心となって
七尾貿易同盟会を結成し、石川県出身者にして大阪に活動の本拠を有する大家七平(大家汽船会社を経営)に働きかけ七尾町から補助金を与え、また明治32年11月臨時的に第一回輸出を試み、さらに大家汽船会社の定期寄港地に七尾を加えるように政府に請願したのである。大家七平に頼んだのは、もと大聖寺藩領瀬越湊の船主で、藩に莫大な銀を上納し、明治維新後はいち早く様式船に切り換え、大阪に大家汽船を設立した人物であったからである。また政府が、浦塩港との航路を確保するため、大家汽船に年間6万円の補助金を出していることを知り、七尾貿易同盟会が、同汽船の寄港を働きかけたのである。

 当時大家汽船会社の寄港地は小樽・函館・新潟・浦塩の各港で、伏木・七尾・敦賀・宮津・境・浜田は寄港地となっていなかった。そこでこの6港が結んで6港同盟会を組織し、政府に働き掛けることになったが、七尾もこれと密接な関係を保ちながら努力を重ねた。別途に政府の認可を得て明治33年(1900)5月より隔月1回大家汽船の臨時寄港としての契約に成功。そこで政府もついに折れ、明治34年4月前期6港を大家汽船の命令航路の寄港地に編入した。この年4回の寄港があり、
年度内輸出総額3万5千円をあげ、開港場としての面目を保ち得たのであった。かくして明治34年5月大家汽船の命令航路は甲乙2種となり、甲は門司を基点として敦賀・七尾を経て浦塩にいたるもの、乙は小樽を基点として七尾を経由して浦塩に至るものである。

 つまり七尾は、定期寄港地となったのである。なお乙線は往復ともに七尾に寄港することになっていた。外貿易港として発展の見通しが開かれた段階で、神野良らは七尾港の経営は七尾町民だけにまかすべきではないと考え、全県協力体制を作るべきことを有志に訴え県にも申請した時の知事野村政明まず神野良の意見に賛成し、こうして県下の有志を集めて明治34年11月金沢市で石川県東亜同盟会の発会式が行われた。
浦塩との貿易は年々盛大になったが、明治37年・38年の日露戦役により一頓挫をきたすことになった。
 やがて再び平和が戻り、大家汽船の大坂商船会社への合併以後、同会社の手により定期航路が維持され、年3回七尾港への寄港が続けられた。

  ところで、明治期の外国貿易港は、長崎・神戸・函館・横浜・新潟の5港とされていたが、明治32年(1899)7月には、清水、武豊(愛知県)、四日市、糸崎(広島県)、門司・若松・三池(福岡県)、唐津(佐賀県)、住ノ江(兵庫県)、口ノ津・巌原・佐須原・鹿見(長崎県)、三角(熊本県)、那覇、浜田・境(鳥取県)、宮津(京都府)、敦賀、七尾、伏木、青森、小樽、釧路、室蘭が外国貿易を行ない得る港とされた。
 この快挙については、『七尾町史』(大正5年刊)は、「吾七尾は始めて貿易の自由を得たり、嗚呼8月4日は七尾市民が永遠に記念すべき月にあらずや」とその喜びを謳っています。8月4日とは、貿易の始まった日のことです。

(その他の航路)
 近海航路として、明治27・28年戦後政府が日本郵船会社をして神戸・小樽間の定期航路を開かせたのを機に、神野良は七尾貿易同盟会を代表して会社と折衝し、七尾寄港に成功した。こうして明治33年4月に第1船が帰港し、以後日露戦役のはじまるまで継続した。ついで、明治40年穴水町出身で当時七尾の府中町にいた樋爪譲太郎などによって
北洋汽船株式会社が設立されています。この設立までには、なみなみならぬ樋爪や七尾貿易同盟会や町民の並々ならぬ努力がありました。

 樋爪譲太郎はその設立の前年・明治39年10月に「38年9月政府の保護政策の中で行われた命令航路は終わった。この後、航路は会社(企業)の自由選択となったが、会社にとり採算のあわない航路は切り捨てるのは当然で、七尾港への寄港にかわり、伏木港への寄港が多くなろう」と説き、この危機を乗り切るために「我七尾港は如何なる方針を取るべきか、唯一あるのみ、汽船会社の設立なり」と海運会社の設立を石川県会に訴えている。樋爪は明治22年(1889)に能登汽船を設立し、また翌23年には樋爪海運を設立し、富山県の北越汽船と激しい競争を展開していた七尾海運業界の実力者でありました。

 明治40年(1907)3月には、樋爪譲太郎を代表にした北洋汽船株式会社発起人会が、石川県知事に対して、会社設立の際の助成を請願し、県は会社設立後3年間、1年に1万6000円の補助を約束し、1月、北洋汽船は、社長に、西村貞吉、常務取締役に樋爪譲太郎・和島貞二、取締役に米村又次郎が選任され、北洋・千賀の2汽船、資本金20万円でスタートしました。
 浦塩航路は年10回、北は樺太・北海道へ西は門司・プサン(釜山)・韓国の北西岸に至る迄の航路を運航したが、業績は思わしくなく、一時は会社の名義だけ残っているという状況でありました。明治41年にはついに休止にいたっています。

 湾内航路に関しては、前にも記しましたが、明治18年松井善四郎が汽船一隻をもって七尾〜宇出津に航路を開設したのが始まりであります。これは翌19年に
日要という会社に引継がれ、船も一隻増加しましたが、22年には
樋爪譲太郎が能登汽船株式会社を設立、ここに湾内航路は2社の競争時代に入った。しかし間もなく前者は能登汽船株式会社に合併され、小康状態となった。しかし、翌23年には樋爪はその会から脱会し、新たに樋爪海運を創立し、伏木・直江津にまで航路を延長し、北越汽船会社と激しい競争を演じた。その後もこの2社の競争が繰り返され大正7年丸中汽船株式会社が創立されるに及んで、ようやく一段落を告げました。

(丸中汽船株式会社)
 丸中汽船は、大正7年(1918)2月に能登沿岸航路の海運会社としてスタートした。当時能登の海運界は、船賃の大幅値上げなどの要求で混乱し、全航路が中止されようとした。この正常化のため石川県当局は、中島村で沿岸汽船経営の木下良と七尾から穴水までの郵船経営する七尾町の広島弥兵衛に新汽船会社設立を熱心に懇請。2人が、この県の要請を受けて丸中汽船株式会社は誕生した。

丸中汽船の主な船名
船名トン数建造
遠洋丸
中島丸
茅部丸
幸洋丸
第一五洋丸
第一尾湾丸
第二尾湾丸
第三尾湾丸
第一能州丸
天神丸
66.07
24.38
77.00
135.72
26.36
38.37
59.06
99.60
149.62
30.83
明治31年7月
明治43年6月
明治43年9月
明治43年11月
大正6年12月
大正7年8月
大正7年8月
大正7年9月
大正7年11月
大正9年8月


 初代社長は木下良。大正9年、資本金を50万円に増資。同10年鉄工所を解説。同14年自動車運輸を兼業。この頃、社長になった広島弥兵衛は、大正7年から12年まで七尾町長を勤めた後の就任であった。こうして丸中汽船は、能登の沿岸定期航路の全部と陸路一円のバス事業をほぼ一手に運営する総合交通会社に成長した。しかし、
昭和3年(1928)10月に和倉から能登中島まで、7年8月穴水まで、10年7月輪島まで鉄道が延長開通した。さらに同年10月穴水〜飯田に省営バスが開通。能登半島の鉄道延長・省営バス開通は、能登の住民に大歓迎されたが、反面、丸中にとっては汽船とバスの乗客を極端に減らし致命的な打撃を受けた。

 戦時体制になった昭和12年、海軍次官山本五十六の名で丸中汽船の主な4隻が徴用予定船に指定された。このうち、第一能州丸は北海道で沈没、幸洋丸は昭和13年に売られ、第三尾湾丸は徴用され、残った第二尾湾丸も昭和14年5月九州玄界島沖で遭難沈没。主力船全部を失ってしまった。太平洋戦争が激しくなった昭和18・19年にかけて、国の施策で企業合同が進められた。丸中汽船は、能登商船、七尾造船(のち報国造船)、興亜製作所(のち三菱重工)、車両部門は石川交通と北陸鉄道に分散合併させられた。本社機能は昭和19年6月、商号を丸中商事と名称を変えて今も受け継がれている。


(港湾改良の歩み)
 県では七尾港の発展を計ろうとして、実業団体に補助金を交付し、北洋汽船会社を援助するなどをしたがやがて明治43年から七尾港の入口小口瀬戸の森田礁の破砕工事に着手、翌44年には航路標識灯が設置された。森田礁破砕工事は大正3年まで継続され、7百万余坪が除去された。大正4年からは湾内の浚渫埋立て、桟橋仮設の工事が始まり、同7年にこの改良工事は終了した。これと並行して七尾市では、七尾港出入の船舶に給水の便を与えるため、大正2年から岩屋の清水を水道管で送るための埋設工事を行い翌年3月に完成した。
 
 また大正6年には上屋2棟・倉庫1棟を建設、これに鉄道を引き込み、海陸連絡上の設備を施し、大正8年に完成した。こうして同年以降3000トン級の船舶の接岸が自由となったのである。昭和2年には第2種重要港湾に指定され、翌々年から12ヶ年継続事業として国費150万円を投じて港湾整備事業に着手、昭和18年に第1埠頭を含めた第1期修築工事が完成した。つづいて昭和19年には第2埠頭に石炭荷役施設が完成したが、昭和20年の太平洋戦争終結以来、一時港湾も沈滞するのである。昭和23年に再び指定貿易港となったが当分活躍は期待薄であった。


(年表でのまとめ)
貿易港としての七尾港)
明治30年6開港外貿易港に指定
七尾港で、外国との貿易ができるようになり、府中町員外に新潟税関の支署が設けられた。しかし、2年毎の輸出入貨物の金額が5万円以上なければ、貿易できなくなる規則でしたから、七尾町では、大阪の汽船会社に補助金を出し、また政府に働き掛けて、対岸シベリアのウラジオストックへの定期航路も開かれました。この他、明治40年には、北は樺太(今のロシア共和国領サハリン)や北海道、西は門司から韓国まで航路を伸ばしました。
明治32年七尾港が開港場に指定され、この後、港の改良がすすんだ。
明治34年
埠頭場を建設(工費6,440円)明治42年修復

臨 港 線)

この線ができるまでは、七尾へ船で輸送される荷物は、いったん府中町の波止場へ陸揚げし、本府中の七尾駅まで運送するという不便なものでした。そこで、鉄道線路を矢田新町まで延長し、
明治37年7月矢田新停車場(大正6年に七尾港駅と改称)がつくられた。
港の改良と戦争の影)
明治43年から、大正3年(1914)
まで、七尾湾の入口の小口瀬戸の森田礁(もりたぐり)を取除く工事が行われた。
明治44年航路標識灯設置
大正3年2月大戦以前だが、金沢を本拠とする第九師団は、朝鮮守備に派遣されることになった。七連隊や三五連隊など金沢の各部隊は屯営を出発、羽咋で宿泊したのち七尾に到着し、つぎつぎ乗船していった。その度に七尾の港では、盛大な出発壮行式が開催されたのである。
また、七尾港が発展すると、港に出入りする船も増えた。これらの船に水を積み込むために、同年(1914)当時の矢田郷村藤橋岩屋「岩屋の清水」)から府中町の浜まで水道管を敷設した。途中、所口、一本杉町、阿良町、米町、三島町にポンプ場を設け、一般の人々にも利用できるようにしたので、付近の人々は便利になった。
大正3年から8年にかけてから、湾内の浚渫工事、一万坪の埋立工事、桟橋の建設が行われ、
大正6年、予算16,500円をもって、上屋2棟、倉庫1棟、鉄道引込線の建設に着手大正8年に竣功。
大正8年には、3,000トンの船でも岸壁に着くようになりました。ちなみに第一次世界大戦の勃発の影響で資材が高騰し、予定では2年前(大正6年)完成のところ、2年遅れるという形でも時局が影響した。
大正10年5月にはロシア革命の抑圧を理由にのシベリアに軍隊が派兵された。いわゆるシベリア出兵である。第九師団の兵士は「豚の如く扱われ」(黒島伝治の『軍隊日記』)、七尾港よりウラジオストックへ向けて万世丸で運ばれていった。さらに、戦艦その他の艦艇の入港など、第一次大戦前後から七尾港をめぐる動きは活発化していった。なお、同年5年7月には、皇太子(のちの昭和天皇)が日本海沿岸の各地を召艦生駒で行啓、七尾にも到着した。皇太子を乗せた人力車は鹿島公会堂から府中町、檜物町を経て一本杉へと進んだが、沿道では4000人に及ぶ各学校生徒が迎えたという。
大戦後の七尾)
第一次世界大戦やシベリア出兵による軍需品の輸送を最後にウラジオ貿易は収束する。撤兵後一時七尾港はさびれるが、代わって朝鮮、さらに満州との貿易がはじまるようになる。これは朝鮮における日本海側の鉄道建設が次第に北上したことにより、大連経由に比べ、日本海を横断する方がはるかに便利となったからである。こうして七尾は新潟・伏木・敦賀などとともに日本海側の重要な港となったのである。
昭和2年(1927)には、第2種重要港湾に指定され、その後も、港の工事が進んだ。

戦前期七尾港の修築関係略年表
1897(明治30)指定貿易港となる
1899(明治32)開港場の指定を受ける
1904(明治37)臨港線全線開通、七尾港駅設置
1910(明治43)小口瀬戸・森田礁など破砕着手
1911(明治44)灯台・導灯・柱灯・浮標設置
1914(大正3)県営による矢田新埋立・桟橋架設・
浚渫工事着手
1919(大正8)七尾町営上屋、倉庫建設
1922(大正13)七尾町営貯木場設置
1926(大正15)丹羽鋤彦博士による七尾港修築案
策定
1927(昭和2)第2種重要港湾に指定
1928(昭和3)七尾港修築起工式挙行
1943(昭和18)修築第1期工事竣工
第二期工事計画、閣議承認

昭和3年臨時港湾調査会が七尾港修築計画を可決。10月、七尾港修築の起工式が行われた。

昭和4年度から、第2種重要港湾の指定を受けた事を契機に、修築工事として第1期工事(当初計画12ケ年継続事業、総工費355万円)が進められた。その目的は、木材、石油、鉱石などの大量貨物を処理できる海陸連絡設備の改善を主眼とするもので、昭和30年度に予想される総トン数248万トンの貿易に対応できる港湾設備を目指していた。修築計画の主な内容は次の様なものである。
①矢田新地先に1万5300平方mを埋め立て、4000トン級汽船2隻、1000ないし2000トン級3隻が同時に停泊できるようにする。
②府中埠頭から矢田新埠頭まで海岸線に沿い幅55m、延長800mを埋め立て、道路及び倉庫敷地とする。
③東湊方面に貯木整理場を設ける。
しかし、この計画は七尾町民全てが諸手を挙げて喜ぶものではなかった。②の計画に対して、浅瀬の渚を必要とする湊町および造船所や製材所などが「死活問題である」と猛反対したのである。
ともかくも、第一期計画が完成したのは昭和18年のことだった。この年、第2期計画も閣議承認を得た。しかし、太平洋戦争の戦局が悪化した昭和20年、米軍により機雷が投下され、七尾港は使用不可能になって終戦を迎えた。

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