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初期扶持百姓〝高橋〟

(1999年8月31日作成)

※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記と同じタイトル名のページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。


前田利家は、天正10年(1582)6月の石動山・荒山の合戦の後、領内各地の有力百姓に扶持与え、彼らの力を様々な面に動員した。その内容は、戦時における人足催促・城詰め御用・馬先案内などの軍事奉仕や、船の調達・物資の運搬、周辺村落の百姓や耕地の管理、年貢諸役の徴収、蔵米(くらまい)の管理、山の管理など多岐にわたった。それは、領主になって間も無い利家が、単に領地支配ばかりでなく、上杉氏の再度の侵攻や上杉氏について勢力の蜂起の心を配らなくてはならなかったからである。
市域には、初期扶持百姓は少なくとも3人確認されている。それは、庵村(現七尾市庵町)高橋、佐々波村(現七尾市佐々波町)九郎左衛門、黒埼村(現七尾市黒崎)助については、扶持高が10俵であったこと、天正11年(1583)12月1日付で給与されたこと以外には具体的な事はわからない。
高橋は、庵村の有力百姓であり、扶持高は他より多く、15俵であった。この高橋は、扶持状を下付される以前、すでに天正10年7月3日に、紫草屋五郎左衛門跡職(あとしき)の田地の年貢納所を求める庵村惣百姓宛利家黒印状を受けている。惣百姓宛文書が同家に伝存しているところに、同家の位置がよく表れているといえよう。さらに、同家には同日付で、石垣跡職の田地の年貢納所を高橋に申し付ける利家黒印状もあり、この黒印状の尚々書(なおなおかき)に在所網も委ねる文言が加えられ、高橋が単に田地ばかりでなく、漁業においても卓越した力を持っていたことが窺われるのである。
扶持状には、「惣地下(そうじげ)」すなわち村落全体の監督が命じられているが、天正13年(1585)6月付の黒印状では荒地の改作が命じられ、扶持百姓の職務の一端を見ることができる。

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