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一宮の合戦とその周辺
(2001年3月17日作成)
戦国後期の天文22年(1553)12月28日、羽咋郡の一宮周辺(羽咋市一宮町・寺家町・滝町・柳田町付近)において能登で最大の合戦が展開されました。戦国大名の能登畠山氏(七尾城主)の重臣であった反乱軍の遊佐美作守続光一党が、前日に鹿島町大槻(鳥屋町)の合戦で、七尾城主方の軍勢と激突して敗北し、七尾西湾に近い内浦街道筋の同郡田鶴浜(田鶴浜町)の陣地を払って、加賀国に退去の途次に、一宮付近で追撃を受け、再び大敗北を喫したのであった。
遊佐続光は、能登畠山家、というか畠山氏譜代の被官で、室町期以来、守護代を務めた家柄でありました。大名畠山義統のもとで、有力重臣「畠山七人衆」内部における主導権争いで、在地国人出身の重臣温井紹春(じょうしゅん)(総貞(ふささだ))に破れ、能登の国外に出奔していました。しかし、この年の12月10日に至り、河内衆(畠山嫡家の被官)の遊佐源五・安見紀兵衛(あんみきへえ)らの支援を得て、加賀から能登に侵攻し、外浦街道と西往来筋の分岐点で要衝にあたる一宮に陣を張った後、翌日、一宮を出発して、眉丈山(びじょうざん)系付近の道を通り、羽咋郡の滝谷(羽咋市)・賀茂荘(かものしょう)(志賀町加茂地区)を経て、鹿島郡の大槻・田鶴浜に布陣していました。ここで温井続宗(つぐむね)・長続連(つぐつら)軍を主力とする畠山勢6千と対戦し、味方の武将・遊佐弾正左衛門尉、加治中務丞(かじなかつかさのじょう)、伊丹続堅(つぐかた)や雑兵300人を討ち取られ、先に攻め入った眉丈山系の道を遁走して、一宮に辿りついたのであった。
七尾城方の畠山七人衆が、合戦の直後に、本願寺内衆の下間頼資に書き送った書状によれば、一宮の追撃戦において、遊佐勢2000人が討ち取られたとある。大将のの遊佐の落ちのび先は不明とされており、遊佐豊後入道(秀頼)・平左衛門六郎など、旧畠山家重臣の畠山方の将を、七尾方が生け捕ったともみえていた。
また合戦から2ヶ月後になって、畠山重臣でかつて遊佐続光のライバルであった温井紹春が、京都東福寺塔頭栗棘庵(たっちゅうりっきょくあん)に報じた書状には、一宮の合戦において、遊佐孫四郎、同孫八郎、同五郎兵衛、千手院、伊丹宗右衛門、丸山出雲守、丸山丹後、河野藤兵衛続秀などの旧畠山被官の他、河内衆の遊佐源五、安見紀兵衛や「加州之者」(一向宗徒)ら都合4000余人を討ち取ったりとあり、反乱の大将であった遊佐続光は、このとき越前に逃れたようです。
一宮合戦で壊滅した遊佐続光の軍勢には、2通の書状の内容に相違はあるが、その顔ぶれについては、かつての七尾城内の畠山家臣のうちで名だたる武将が見えており、遊佐氏の反乱が畠山家中を二分した大規模な軍事的抗争であった事情が知られます。年の暮れも迫った合戦の時期には、おそらく積雪のあった可能性が強く、雪の中の激闘によって、白雪に被われた一宮地域の山野は、一瞬にして修羅場と化して、鮮血に染められたことでしょう。
「一宮」の地名は、当地に鎮座する能登国一宮の気多社に由来するもので、一宮は、東町・西町・町・(竹)津・楊田の集落が見られて、中心部では宿の機能を持つ町場の形成も図られていました。当地には、気多社の社家・社僧の他に、番匠・鍛冶大工・紺屋(こうや)など手工業者も居住し、海に面した竹津(羽咋市一宮町の沿岸周辺)は、羽咋郡南部における日本海の泊津として機能していました。天文22年暮の一宮合戦で大敗した遊佐続光が、越前にひそかに逃亡した経路は、竹津から舟で海路に向かったものであろう。
(参考)「石川県の歴史」(山川出版社)
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