このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

江戸時代能登を代表する文化人を輩出した一族
廻船業者・岩城家

~海山物を商っていた七尾の豪商 代々の塩屋清五郎

(2015年11月5日メンテ)
 岩城家は、七尾の豪商で海産物を扱ってきた。その邸宅は御祓川の仙対橋のほとり(現在の生駒町・中山薬局の辺り)にあった。
 この一族は江戸時代中期以降、町年寄など町の重職を歴任して七尾の町を支えた。文化年間(1804年~)までは塩屋宗家五郎兵衛家、それ以降は塩屋清五郎家の当主が代々所口町(七尾町)町年寄を代々つとめている。

 またこの一族は、数多くの俳人など文化人を輩出して文化・学芸面でも多大な貢献をした。
 塩屋一族の中でも特に塩屋清五郎家は、七尾湾周辺の海参(なまこ)を一手に扱う幕府の御用商人として活躍し、また京の儒者皆川淇園や頼山陽など当時一流の文化人らと深い交友関係を持っていたことでも知られている。三代清五郎こと岩城穆斎は『所口の賢人』と讃えられている。

 先祖は融源(岩城家初代)といって、越前大野から能登に(乱を避け)移住し、寛永7年没した。所口に居を定め商人になったのは2代目久安(久庵)からのようである。穆斉の墓碑に、大野に移る前は、先祖(融源?)はかつては尾張名古屋で禄を食んで(信長?それとも織田家の誰か?に)仕えていたいたとあり、それまでは武士であったようである。そののち、宗円、久円と続き、宗悦(令徳)にいたって、(初代)塩屋清五郎を称した。
 

岩城司鱸(いわき・しろ:俳人として有名) (初代・塩屋清五郎)
 宗悦とも号し、令徳という名だった。
 七尾湾には、海鼠(なまこ)が沢山獲れるので、海鼠の腸を取り除け、煮てから乾燥精製した海参(いりこ)という特産品があった。享保13(1728)、所口のいりこ問屋・初代塩屋清五郎は、いりこを他国へ移出販売する願い出をし、許された。
 加賀藩では、海鼠生産では、藩に納める御用海鼠が最優先だったが、清五郎は、御用海鼠の余りを「いりこ」として、長崎へ移出して、大きく成長した。宝暦年間の頃からは、幕府から直接の指令によって、この七尾沿岸・鹿島・鳳至の21の漁村で作る海参(いりこ)を塩屋清五郎が一手に買い上げて、これを長崎に輸送し、幕府の官庫に納めていた。

 海参
(いりこ)を清へ輸出し、当時における重要な海外輸出品とされていた。塩屋清五郎は、海鼠(いりこ)の上納で毎年巨万の富を得ていた豪商であった。幕府の御用商人となった岩城家は、加賀藩はじめ各藩の支配を受けず、すばらしい勢いがあった。3百石積の久宝丸という海参船は舷側に「御用」の旗印を高々と翻し、港々の大小の船舶は、この旗印を見るとこれに気押されて出船入船の水手・楫取りなど皆一様に平伏するほかなかったという。
 
岩城泰蔵(いわきたいぞう) (2代目・塩屋清五郎)
(享保18(1718)~安永5年(1764)
 諱(いみな)は「白」で、字(あざな)は子明、俗に清五郎と称した。享保18(1733)七尾に生まれる。家業の海産物問屋を経営するかたわら、学問を志し、商用で長崎に行った際は、筑前の儒者・亀井道載(かめいどうさい)について儒学を学んだ。また、人々が利益追求に走り、義の廃れを嘆き、飢饉の時はいつも、自分の蔵を開いて貧しい人々を助けた。これが、2代目・塩屋清五郎である。
 七尾市小島町の尼ヶ谷墓域に彼の墓碑があるという。筑前の儒者亀井魯の筆になるもので、安永6年の建立である。 
岩城穆斎(いわきぼくさい)(3代目塩屋清五郎)
(延享4年(1747)~天明8年(1788)
 泰蔵の弟。諱は真、字は公淳という。19歳で上京、儒者岡白駒(おかはっく)父子に学んだ。ついで兄と同様、筑前の儒者・亀井道載(どうさい)(亀井南冥(なんめい))に師事すること4年。子供のいなかった泰蔵の命令で、27(安永2)で家業を継ぎ、もっぱら経営に手腕をふるった。海産物の交易による利益を海浜諸村民に還元し,義商清五郎とよばれた。

  30歳の時に京都の*皆川淇園(みながわきえん)の著書に感じてその門に入り、毎年商用が済むと京都に長く滞在して経書を学び、斯くすること10年に及んだ。その間、郷里において、家塾・臻学社(しんがくしゃ)を開いて師弟に教授し、又、その門下生にすすめて淇園に師事せしめるなど、郷党の子弟に多大の感化を与えた。僻遠の能登から、横川長州、岩城鑾涯、橋本子順など、淇園門下の高足を輩出し、能登文化に貢献した事は、穆斉の功に帰せねばならない。彼の人となりは清廉剛直であって、常に漁民を奨励して製品の改良進歩をはかり、同時にその利益を惜しみなく分ち与えた、ということである。

 したがって、彼の評判は遠近に聞こえ、誰言うとなく、「所口の賢人」と称せられ敬重して、その名を言う者はなかったという。
11代藩主・治脩は租税を免じて町年寄にあげ、黄金を賜いて、これを褒賞し、かつ郷民に命じて、商売に従事する者は、全て清五郎を模範とせよ、と諭したということである。天明8年(1788)春正月病死した。享年42歳。碑文は、皆川淇園が選んだものであり、その中で、大志大才を抱きながら病没した穆斉のことを惜しんでいる。 
岩城豹(ひょう)(鑾涯(いわき・らんがい)楽斎)(4代目岩城屋清五郎)
(安永4年(1763)~天保11(1840))
穆斉のあとを継いだ岩城鑾涯は、皆川淇園について学び、詩文に堪能であり漢詩が優れていた。他で書くと思うが、一本杉町の文人・書画家の横川巴人の先祖・横川長洲も(3代目塩屋清五郎こと岩城穆斎に学んだ後)同じ皆川淇園に学び、横川長洲とも交流していたようだ。また皆川淇園門下だが加賀藩の重心今枝氏に仕え、「詩経訓解」「能登遊記」などの著者としても知られる金子鶴丸も交流があったようだ。鶴丸の「能登遊記」には、彼が岩城鑾涯を訪れ、横川長洲も交えて色々話し合ったことが記されている。 
岩城西ダ(いわきせいだ)(5代目塩屋清五郎) 
(寛政7年(1795)~天保7年(1836)
 (西ダのダの字は、土へん+它と書くがネット上では使われていない)
 
 有名な頼山陽の弟子でもある。西も、穆斉と同じように、毎年海参(いりこ)を大阪の官庫に納め、帰りは数ヶ月、京都に逗留して、知名の人々と交際していた。
山陽に初めて会ってから、爾来十数年ほとんど毎年商用を済ませると京都に留まって、山陽及び一門の門人墨客と親交を結んでおり、その詩酒の間に角遂応酬せしめし情況は西?の詩稿及往復書翰等に躍如として誌されている。西は、勿論豪商であったので、大阪の宿所は格式の高いいわゆる御本陣であて、門前には家紋の三つ巴を染め抜いた幔幕を張り、式台には定紋の高張提灯を2張りたて、手水桶を備え盛り砂をしてあったそうである。西ダは、山陽の門人であったが、一面またパトロンという風でもあった。京都では、木屋町に宿を構え、師匠の山陽をはじめ、そのグループの雲華上人・田能村竹田・中村竹洞・岡田半江・小田百合・梁川星巌など当代一流の学者文人と交遊を重ね、浦上春琴などは、わざわざ西を七尾に尋ねてきた。
皆川淇園(みながわきえん)(17341807):江戸中期の儒学者。経書の言語の研究を重んじ、開物学を唱えた。門人3千人。また、書画もよくした。著書、「名疇」、「易原」「門学挙要」など。
頼山陽(らいさんよう)(17801832):江戸後期の儒学者。歴史家。名は襄(のぼる)。安芸(現在の広島県)の人。父は春水。江戸に出て、尾藤二洲に学ぶ。詩・書もよくした。著書、「日本外史」「日本政記」「日本楽府」「山陽詩鈔」など。
田能村竹田(たのむらちょくでん)(17771835):江戸後期の文人画家。豊後生。名は孝憲、字は君彝、別号に九畳仙史・随縁居士等。資性は風流で、文雅を好み高才多能、詩歌・文章・書画・茶香みな通暁していた。絵は谷文晁に学び、明・清画を研究して独自の画境を築く。また交友も多く浦上玉堂・上田秋成、殊に頼山陽・岡田半江と親しくする。また弟子に帆足杏雨・田能村直入らがいる。天保6(1835)歿、59才。
 
(参考文献)
「先人群像・上」(石川県図書館協会)
「広辞苑」(岩波書店)
「能登風土記」(佐々波與佐次郎著)
「七尾市医師会史」
(七尾市医師会)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)
「七尾市史」
(七尾市史編纂専門委員会)
(図説)七尾の歴史と文化」(七尾市)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください