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小浦左幸さこうと村民の逃散ちょうさん

 能登島の東側海岸に面した小浦という小さな集落がありますが、そこを抜け南に向かうと野崎に行く途中の山側に、「小浦左幸屋敷跡」という看板が立っているのが目に付きます。まずは、その場所にある案内板の説明文を転載させてもらう(枠内の文が該当説明文)。
 能登島町指定史跡   小浦左幸(こうらさこう)屋敷跡    
                                  指定年月日:平成11年6月1日

小浦左幸屋敷跡
 古来より当地は、小浦左幸屋敷跡と伝承されており、多くの伝説(民話)を今に残している。1つは『銭掛松』というものである。

 「島八太郎の子孫の一人、森(小浦)左幸はこの辺りに住んでいた。大金持ちで、土用の虫干しがくると、屋敷にある松の枝すべてに銭を吊し、眺めて楽しんでいた。それほどの金持ちでありながら、百姓には重い年貢を課して苦しめていた。小作の百姓たちは年貢を減らしてくださいtご、毎度願ったが、決して聞き入れられなかった。そこである日、百姓たちは、ここから逃げて越後へ行こうと決めたのである。村人総出で越後へ逃れた後、残された森左幸も「小浦の左幸も一人おられん」といい、村人の後を追って越後へ行った。」

 『能登誌』によれば、慶長10年(1605)、あるいは寛永年間(1624〜1643)に加賀藩への年貢米の未進により、一村あげて逃散したとあり、無住になった小浦村は隣村野崎村の持添として、村は存続したという。この説は先の民話と関連するところが多く興味を惹くが、他にも前田利家が石動山を焼き討ちにした際に、石動山側で参戦した小浦村村人が上杉景勝を頼って越後に落ちのびたとの説、あるいは揚浜式塩田による塩づくりの技術に長けていた村人が越後の上杉氏に召喚されたとの説などもあり、諸説は絶えない。

 さて当地は現在、屋敷が建てられていた当時の面影は少ないが、直径約1m前後の井戸跡や、整地されたとみられる平坦面、塚状の中世墳墓、五輪塔数基などが遺存している。現存する五重塔は、いずれも完形を成していないが、復元すれば高さ約90cm前後の完形を保つ五重塔2基も以前所存していたが、昭和46年、新潟県上越市塩屋新田村(現、中央5丁目)の『開村350年祭』の折に運ばれ、同町「日野宮神社」境内に安置されている。なお五重塔の年代は室町時代に比定されている。

 
 この案内板にある『能登誌』とはおそらく『能登名跡誌』のことでしょう。「能登島のれきし」(能登島町発行)によれば、小浦村から移転した人々の子孫は、現在新潟県上越市(直江津)の塩浜町に住んでいるとあり、その筆者はそこの日野宮神社で「・・・・・当村根本の儀は百三十年前、能州(能登)石動山より引越し百姓にて、塩屋新田村に住み、塩浜を以って渡世(くらしをたてる)していました・・・・・」(享保14年(1729))とあった記録を紹介しています。享保14年の130年前ということは関が原の合戦があった慶長5年(1600)以前ということになります。

 また同社の境内にある石碑には「当社及び当村は、能登国鹿島郡嶋之地小浦で、慶長十九年移転・・・・」という銘文も残されているそうです。移転の時期は2つ出てくることになるが、ともかく、移住はまず間違いない事実のように思えます。となると先の説明板にあった「前田利家が石動山を焼き討ちにした際に、石動山側で参戦した小浦村村人が上杉景勝を頼って越後に落ちのびたとの説」というのが意外だが、移住の真相に近いのかもしれません。

 小浦ではないが、これまた「能登島のれきし」に載っていたことですが、次のような面白い記録もあるそうです。石動山合戦のあった翌年、つまり天正11年(1583)分鰀目村算用状(村の収支を計算した帳面)に「五百二十六俵二斗、ゑのみ(鰀目)の高(=生産高)、五百二十六俵、長崎ちくてん」と書いてあります。これからみると天正11年の両村の収穫高はほぼ同じ程度であることがわかりますが、長崎村が「ちくてん」とあるのは長崎村が一村あげて逐電したことをさし、つまり長崎村の分はおそらく鰀目の百姓が代わりに世話をしたと考えられます。

 なぜこういうことになったかというと、おそらくは長崎村の有力土豪が、百姓を引き連れて鰀目村の当摩善三郎らとともに、上杉方に味方し、石動山の合戦に参加したものと考えらるというのだ。この戦いは、前田方の勝利で、石動山衆徒と上杉方は破れました。その際上杉軍の撤退とともに越後へ去ったのだろうというのだ。

 話を小浦村に戻す。慶長5年に小浦の者が越後へ渡ったとすると、石動山合戦より後ということになる。なぜ、そんな頃に、上杉景勝を頼ったか不思議な気もする。慶長3年(1598)には、上杉景勝は越後から会津へ移封されています。となると慶長5年時には、上杉勢は越後にはいなかった訳で、上杉景勝を頼ったという話では矛盾してしまいます。ただ可能性考えられるのは、越後には、先に同じ能登島の東海岸から移住した長崎や鰀目の村民が多数いたことです。もしかしたら小浦村からも数人含まれていたかもしれません。その人々を頼った可能性は十分あるのではないでしょうか。そんな知る辺の方が、上杉景勝より頼りになったのではないでしょうか。

 この能登島、特に外海に面した東側の漁民は、上杉と前田氏の戦いの時には、上杉方の船御用としてかなり活躍したことが想像できます。実際、鰀目の当摩善三郎などは、上杉方について戦ったことがはっきり記録に載っています。当摩善三郎などが上杉に随って越後に移ってしまった後でも、たとえば前田利家をはじめとした織田方が越中の魚津城の上杉勢を攻めていた時、おそらく小浦をはじめとした能登島の漁民が、水手(船乗り)として前田利家に徴用されていたことでしょう。その時、上杉方でも長崎の漁民が加わっていた可能性も大いにあります。そこで漁民同士なら、敵味方ということでなく、連絡ぐらい取り合ったかもしれません。

 前田家は、武士でなくとも、前田家に抵抗した温井・三宅・遊佐などの旧領の民には、それ以外の地域に比べ、辛く当たったことが知られています。前田家の支配が確固なものとなった後、温井・三宅・遊佐の痕跡を残すものは、歴史書なども含めて徹底的に破棄したらしいです。関が原合戦後の天正12年におこなった検地後、能登島各所で定められた税率などみると、低いところで、6割5分、高いところでは7割5分もあったようです。四公六民(税率4割)どころではありません。このような苛斂誅求に耐えかねた村民が、すぐ外海に面している上に多くの優れた水手(かこ:船乗り)や船頭がいたとなると、一村揚げての逐電など、その気になれば簡単な事ではなかったでしょうか。

 移住の時期も、慶長5年と慶長19年の2回だったかもしれません。ここで「小浦のさこ」に関する諺(ことわざ)「小浦左幸(さこ)も一人もおられん」(小浦の左幸一人では生活ができない)という文句が重要な意味を持つのでしょう。前掲の「能登島のれきし」では、2回の移住があったとすると、一回目は村人の大多数が移住し、残された小浦村の土豪・森(小浦)左幸も、村人の後を追って越後へ移住し、あのような諺が生まれたかもしれないと書かれています。
 なかなか面白い説だと私は思います。かなり想像を交えてのページとなってしまいましたが、皆さんはどう思います?

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