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熊 来 荘

2001年4月3日一部加筆修正

 能登半島のほぼ中央部の七尾湾に面した鹿島郡中島町は国指定重要無形文化財の「熊甲(くまかぶと)二十日祭の枠旗(わくばた)行事」の里として地元石川県では知られている。毎年9月20日には、久麻加夫都加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社に、郷内16ヶ村、19末社の神輿と真紅の大枠旗が参集し、盛大にお祭りが繰り広げられます。
 この神社は、中世には「熊甲宮(くまかぶとみや)」と称し、熊来荘惣荘鎮守(そうしょうちんじゅ)であった。祭礼は江戸時代にはじまるが、参加の村々は、かつて熊来荘を構成していた地域であり、それが荘園時代からの暮らしと信仰の結びつきを受け継いだ、伝統行事であるのがわかる。
 当荘園は、鎌倉時代の前期までは、熊来院と称して公田数36町4反8歩からなる国衙領であったが、貞応3年(1224)10月1日、立券荘号を得て「熊来荘」と改め荘園となった。その許可書である立券文によれば、荘園は現在の中島町の中心部にあたる熊木川下流域の本郷と、七尾西湾・北湾岸の多気志(たぎし)・長前(ながさき)・深浦・長浦・志賀浦(中島町西岸地区から穴水町南端域)の諸浦からなり、本郷は、見並(みなみ)・村松・中嶋・浜田・蔵田・大角(おおすみ)・横田・薦頼(こもより)・山田の各村里から構成されていた。
 熊来荘が成立したころの荘園領主については定かではないが、在地における荘園経営の拠点ともいうべき荘政所(しょうのまんどころ)には、公文代藤井国景が荘官として居住した。その位置を特定できないが、熊木川下流域左岸の東部丘陵縁辺の山裾に、谷内・上町(かんまち)カイダ・ノギヤチ・オカなどの一連の中世遺跡が点在しており、おそらくこの辺りの一角にあったものだろう。
 本郷の村里に住む名主達の家の多くも、この一帯に散在していた。荘地頭であった熊来氏惣領家の居館は、同氏の氏寺である定林寺(じょうりんじ)(臨済宗)と城砦(熊来城跡)の間の、河川に近い場所に設けられていた可能性が強く、ほかに荘園内の村里には、熊来氏の庶流が一分(村)地頭として住んでいた。
 万葉の時代に「熊来のやら」(遠浅の泥海)と詠まれた、熊木川河口付近の艇湿地に形成された中嶋や浜田の里では、地頭のもとで百姓達が動員され、堤防を築いて少しずつ海を囲い込み、排水と塩抜きを行なって水田の開拓を行なっていったらしい。また古代から七尾湾と外浦横断道の結節点にあたり、水陸交通の要衝であった中嶋里では、舟運の便などによって、熊木川沿いに市場が形成されていた。
 郷内の西方にあたる熊木川右岸の舌状丘陵の先端部には、南北朝から室町時代において、集落の共同墓地(上町(かんまち)マンダラ遺跡)が造成されている。それと対峙するように左岸の山際では、惣荘鎮守の熊甲宮が鎮座しており、神主をはじめ結衆(けちしゅう)(供僧(くそう))・八乙女(神前で神楽を奏する少女)・神人らが、同宮を構成していた。
 熊甲宮には、平安時代後期に造刻された
久麻加夫都加志比古神坐像(国指定重要文化財)が本殿にまつられ、講堂では本地仏の薬師如来坐像が安置されており、戦国期にあっては、神事に奉仕していた、猿楽芸能集団(座)の頭人である熊木大夫の存在も知られた。
 熊木荘内の浦方では、
多気志・長前・深浦・志賀浦で塩釜一口ずつが在家によって共有されており、それらの海浜では自然の干潟を利用して、揚浜式塩田による製塩がいとなまれ、領主に対し年貢や公事(くじ)を負担していた。海上では、七尾湾内を行き交う舟が多く見られ、沖には、小舟を操って漁をする人々の姿も見え、冬場には能登の特産である海鼠や海雲(もずく)もとれた。
 当荘園の領家職(荘園領主)は、南北朝時代以降、公家の転法輪三条家が相伝していた。戦国中期の大永8年(1528)1月、領主の三条公頼(きんより)は、同荘の年貢収納を維持するため、はるかに七尾湾の風景に思いを寄せて、「能登の海や長閑(のどか)にかすむ春の日は沖に出そろふあさの釣舟」などの古歌を後奈良天皇に揮毫してもらい、能登守護畠山義総のもとへ、進物にそえて送り届けたこともあった。
 この他貞応2年の立券文によると、荘内において賀茂宮と日吉社が鎮座しており、鎌倉期に北陸の日本海沿岸の要地に進出していた。京都上賀茂社の供祭人や近江の日吉神人の勢力が、当地に及んでいたともされている。中世熊来荘の世界は、熊木川流域に開かれた水田地帯と、波静かな七尾湾岸の浦々によってささえられていたのであった。
 ところで、熊来氏の氏寺であった定林寺であるが、鎌倉末期に開かれた古刹ですが、室町後期・戦国期には能登には珍しい臨済宗の寺であったことがわかっており(現在曹洞宗)、門流は、栗棘門派でした。京都の栗棘庵は京都東福寺の塔頭で、室町初期に、能登の温井氏(実名不詳・覚山空性)が再興した寺院でした。その後、同庵が、能登守護畠山氏を檀越に迎えたことから、、能登における臨済宗の展開は、同じ栗棘派の輪島の聖光寺(温井氏の氏寺)とともに、この門派によって図られることとなりました。

                           「石川県の歴史」(山川出版社)の‘能登熊来荘を歩く’から抜粋

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