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寺 島 蔵 人
〜藩政を憂え、能登島に配流された慷慨の士〜
(1776〜1837)

        
 通称は此母、諱(いみな)は兢(つよし)。字(あざな)は季業。また応養、他色々と名を号し絵を画き、多数の秀作を遺した。人持(上級武士)組・原弾正元成のの3子である。
 寛政12年(1800)に15歳にして藩の学校(明倫堂)の読師(儒者見習)になる秀才であった。
 翌・享和2年(1801)、馬廻組・寺島右門恵和の後を継ぎ、450石の禄を受けた。
 右門恵和は兢の実の兄(次兄)で、寺島五郎兵衛恵叙の養子となって継いだが、早世したものであった。
 享和3年(1803)、つまり兢18歳の時の(現富山県高岡市の)高岡町奉行となり、蔵人とはじめて名乗った。この高岡奉行時代中、経世実学家として全国に名を知られた海保青陵(かいほせいりょう)と交渉を持ち強い影響を受けたようだ。このころ青陵は、金沢や高岡に一年余り滞在したようである。青陵の著作「陰陽談」に高岡町奉行の蔵人のことも記されている。

 文化3年7月(1806)高岡町奉行を辞め、
 文化5年(1808)3月御普請奉行当分加入、
 文化8年(1811)8月定検地奉行、
 文化9年(1812)4月改作奉行、
 文化10年(1813)3月御勝手方御用兼帯、
 同年(1814)11月大坂御借財御仕法主付を命じられた。この時、大坂で銀子を調達しなければならなくなり、奔走して一時の借用分としては前例のない銀500貫を蔵元辰巳屋久左衛門から借用した。同時に木屋又三郎にも交渉し、出銀保証として米の引当切手を要求されたので、算用場奉行井上成昌の諒解のもとに、米切手を渡し、借銀に成功したりしている。 
 つまり主に農政、財政方面の実務を歴任した訳である。
 しかし、文化12年(1815)に、先の銀借用が大きな成果ではあったが(加賀騒動で失脚した)大槻朝元と同様、米切手の引渡しの際、老臣の諒解がなかったと咎められ、「役儀(職務)不念(職務について注意や考えがたりない事。またその様子)の廉(かど)あるを以ってこれを除き、指控」とある。
(どうやら老臣らには、蔵人を罷免にすることにより、引き渡した米切手を無効にしようという底意があったようだが、加賀藩は、藩政の永きにわたっってこいうセコイというか悪辣で阿呆なことを、明治維新まで続けたのである。)

 文化13年(1816)に許され、
 文政元年(1818)8月頭並に補任され、改作方及び御勝手方御用を命じられる。さらにその翌日、御横目に転じるよう命じられた。これは12代(加賀)藩主・前田斉広(なりなが)の意向による再起用であった。
 翌年(1817)正月再び役儀指除(差し除)かれ、3月遠慮を命ぜられた。

 これはその頃、十村断獄事件が起きたことと関係した。これは老臣村井家の家臣・関貫秀が「領内に隠田など80万石の増収がある。それを収納できないのは、私利を貪る十村らが邪魔をするからである」と進言したことによるものであった。蔵人は、財政関係の役職を歴任したり、横目であったことから、それらが虚説であることを知っていたので、このやり方を批判し、同志らと無実の十村らの投獄を阻止したりしようとしたが、藩は結局、31人の十村役に対して、生活ぶりが奢侈な上に役人としての仕事を全うしていないとして、彼らを牢屋に入れ、うち19人を流刑とした。そのため要職者に病人 が続出しどんどん死んでいった。蔵人は、このままでは加賀藩は大変なことに なると思い、藩の関係者方々に批判的な手紙をどんどん出していたのだった。

 また斉広自身が企画した仕法調達銀の強制加入が思わしくいかず、非常に不成績、つまり失敗に終わったので、格別に才覚がありと認められていた蔵人らが何をしていると、遠慮を命じた意味合いもあった。仕法調達銀とは、藩の財政危機を救うためにとられた一種の御用金調達法で、従来の御用金賦課が度重なり人々の不興を買ったので、文政元年10月に富豪たちに、この仕法調達銀を命じたのである。これは頼母講(たのもしこう)の一種で、従来藩が度々禁止してきた取除頼母講(とりのぞきたのもしこう)と呼ばれるものであった。

 この間、享和2年(1802)斉広は、藩主を隠居し、斉泰に家督を譲り、肥前守と称した。
 文政7年(1824)2月蔵人は、役儀指除を許されて、御馬廻組頭、同年3月には宗門奉行兼帯を命じられた。

 ところで、この頃の加賀藩は、非常な財政危機にありながら、従来の藩主を中心とした年寄衆の政治の頑迷な機構そのまま維持していた。斉広は、年寄衆らの意見に従い、今までに色々法令や施策を打ちだし事態改善を試みたが、かえって一揆を頻発させてしまった。斉広は、これでは危機を打開できぬ、と考え有能な藩士を抜擢し、教諭方という藩政改革のための親政機関(教諭局)を竹沢御殿に設置した。

 これは隠居した斉広が、年寄衆の影響を除去し国政を掌握するために、彼を補佐するブレーン12人を中核とした隠居政治、一種の院政のようなもので、3代利常、10代重教(しげみち)の例に倣ったものであった。教諭局は、平士層の俊才12人を選抜して構成員(局員)としていた。
 局員の中、特にその性格・才能をうたわれ、「三老山才」と呼ばれた6人が居たが、「三老」といわれた3人は杉野盟(めい)(300石)、岩田盛照(もりてる)(300石)、笠間定照懋(さだよし)(300石)らは定番組の経験者。「三才」といわれた3人は山本守令(もりよし)、太田盛一(もりかつ)(180石)、それに寺島兢(蔵人)らは、馬廻組・小将組頭らの藩主側近であった。つまり蔵人は、この「三老山才」の一人として大いに活躍していた訳である。ちなみにその他の6人は、津田居方、笠間以信、堀善勝、坂井克任、松原在之、神田保益であった。

 また教諭という名についてだが、江戸時代も後半となり、泰平の世になれた武士は、士風廃頽、風教弛緩が甚だしかったので、斉広の施政方針は、このような風俗の匡正(きょうせい)にあり、たびたび長文の訓示をすることがあったので、このように名づけられたらしい。

  しかしながら、文政7年年7月に成広が急死により、教諭局政治を苦々しく思っていた重臣らによって教諭方も解散となり、斉泰による親政に復した。利常、重教の時代に隠居政治が行われたとはいえ、斉広の時代に中士層が政治の最高機関となったのは、藩政史上の出来事であり、驚天動地の事件だった。他には、6代吉徳の時代に、あの加賀騒動で有名な大槻朝元という人物が低い身分から成り上がり、藩政を牛耳ったことはあったが、そのくらいであった。

  同年閏8月4日、重臣らは、藩士にむけて「祖宗(前田利家)及び先候(斉広)の立てた法は凡(すべ)て之を遵守(じゅんしゅ)すべし」と布告した。蔵人は俊敏な実務家であると同時に生来、慈愛に富み、正義感の強い慷慨の士であった。蔵人は、納得がいかず8月15日意見書を諸老臣に提出した。
 「夫(それ)人民にしていたずらに聚斂(しゅうれん)の政(まつりごと)(苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の過酷な政治)を行い、言を飾って上を欺き、功賞を貪り、民の怨を国家に積ませるのは、不忠jこれより大はない。自分ははじめ、老職のなすところは、みな主君の意から出たものだと思っていた。しかるに、教諭局に入ってみて、さきに老職の行ったことは、先候(斉広)の意と大いに径庭あることを知った。
 先候は加賀が天下の大藩にして、経国の才に乏しいのは、上下とも二百年の太平に狎れ、教養の道を失ったからだと嘆かれた。いかにも俗吏小人は阿諛を呈し、奸商の利を射ようとし、あるいは要路に賄賂を入れ、讒言を構えて正義を陥れる。
 嗚呼、俗吏の輩、経国の要諦を知らず。願わくば諸君、幼君を補佐し、先候の意を継ぎ、深仁厚徳の政を布かれよ。」
 つまり重臣らが述べているのとは逆に、従来年寄がらが施策してきた政治こそ、先候(斉広)の意に反するものであった所以を述べて、その反省を促そうとしたのであった。何とも大胆で痛烈な批判である。

 同年12月には、重臣らは、先候(斉広)の禁令を弛め、絹服を用いるのを許可したり、年始には万歳を舞わせ、祝儀に検校を呼んで琴・三弦を奏させたりした。 

 また天保3年(1820)には、“清世の一閑人”の名で『ふぐ汁の咄』が書かれた。民百姓がお客、招待者が藩主、饗応応接人と料理人が老臣という設定で、古くて臭気に満ちた料理と、気のきかない接待でお客が迷惑する様を、藩政治の様に風刺して描いた作品である。昔は時々、河豚汁にあたったが、当節では無理やり大河豚を食べさせられ、あたって死ぬものが続出すると云い、当主斉泰に対してさえ、「まず大家の若旦那のうち、行状よろしいほうといっていいが、とても三州(加賀・能登・越中)の大守の資格があるとは思われない」などとこれまた大胆な批判をしている。
 
 翌文政8年(1825)3月2日は、蔵人が、その地位も省みず藩の政治に容喙(口出し)したとして、役儀を剥奪されて、塞(ひっそく)させられた。
 天保元(1830)年7月、つまり5年後やっとこの逼塞は許された。蔵人の藩政に関する説に同調する者は上下ともに多かった。中には、8千石の成瀬当職(まさもと)、5千石の中川典義(のりよし)、4千5百石の石崎範古(のりふる)、三千石の篠原一精(かつあき)などもいた。それでもやはり中士層の武士たちが賛同者に多かった。彼らは、逼塞が解除されると、蔵人の家へ集まり政局を語るなど、次第に彼の家は、藩政に対する批判勢力の根城となっていった。

 ところでこの藩窮乏の時期にあって、藩主斉泰は、年寄衆の奥村栄実を挙用していた。蔵人の、この反藩政府的行動から、この奥村をはじめ、重臣らに(※1)「前門の虎」と恐れられた。奥村は、蔵人が藩の要路にも賛同者が多いことから、自分らが主導する政治の邪魔になる積弊を注意深く除去するために、本多政和らと謀った。

 天保7年(1836)11月4日、蔵人を長連弘の屋敷に召し、秩禄(官吏らに払う俸禄)を剥奪して別に15人扶持を給し、その上で彼を能登島に配流することを宣した。翌日(11月5日)本多図書守政守邸に禁錮した。その日の朝の様子は記録によると、本多家の士が大勢着て、衣服を着替えさせた後、元結を払い、紙こよりで結った。衣服は襟なし、紐付、帯なしで、罪人の格好であった。彼は「あわれ、妻子、旧恩の臣ら、かりそめに別れ出て、あにはからんや生涯の離別となることを。嘆息数行、ここにいたりて語らず」と日記に記している。

 11月11日には、蔵人の養子・主馬に祖父の名跡を継がさせて300石を賜わった。
 そして翌天保8年(1837)4月には、能登島に配所の縮所が出来たので、蔵人は本多邸を出て周助、順八郎という従者とともに能登島に向かい、4月24日着いた。建物は島内に八ヶ崎にあり、六畳の居間、四畳の次の間、六畳の茶の間に、三畳と四畳の物置があった。庭には多少の木が植わっており、めぼそ垣が廻らされていた。明確な違法をおかした訳ではなく、政事の支障になるとの理由での蟄居なので、縮所として流刑者に与えられるものと違い、上等なものでした。通常の流刑人の配所は「山木を土に掘こみ、九尺二間にむしろを敷く」(寺島蔵人・島ものがたり)とあるように大変貧弱なものでした。
 蔵人も満足したらしく「じゃあさ(妻→おとし)もほしがるべく候」と手紙にしたためている。日課として毎日、絵を画き、訪ねてくる島人と囲炉裏を囲んで話しあうこともあったようだ。時には奉行時代からの知り合いの十村たちも訪ねて来たし、じゃあさこと、妻のおとしも一度だけではあるが、訪ねてきた。

 同年(1837)9月3日62歳で能登島八ヶ崎の配所にて亡くなった。遺体は鰀目村の浄尊寺で土葬にされました。

 蔵人には、藩政に対しての意見書が多いが、特に有名なのは配流の原因ともなった文政7年(1824)斉広卒去直後のものである。また文政期の財政策などを書いた『ふぐ汁の咄』は、有名である。他にも「寺島随筆」「夢物語」「島ものがたり」(日誌風の手記)などの著書がある。
 金沢市の大手町あにある蔵人邸跡は金沢市指定史跡であり、配所の七尾市能登島八ヶ崎には、石碑が建てられ、遺品の行燈がある。鰀目の浄尊寺から遺骨が移されたのでしょうか、現在彼の墓は金沢市山の上町にある心蓮社というお寺の境内にあります。
 下の左の写真は能登島八ヶ崎にある寺島蔵人配所跡にある案内板というか説明板である。真ん中の写真は、そこに書かれていた配所小屋の見取図を拡大したもの、また右側の写真は、同様そこに添えられていた蔵人が描いた配所小屋の絵である。
ついでにこの説明板の文章で、蔵人の能登島での生活が書かれていたので、その記述を下に転載する。
 「蔵人が能登島に送られた前年の天保7年(1836)は、天候不順で翌年にかけて大凶作(天保の大飢饉)となりました。藩ではこの飢饉に際して、粉糠(こぬか)を支給して救済を図りました。支給地は福浦(志賀町富来)で、八ヶ崎から一泊していかねばならず、途中の食糧、雑費が多くかかり、さらに実際支給された粉糠は腐り固まっていて食べられるものではなく結局、村人に負担のみがかかってしまいます。八ヶ崎では、この飢饉で村人たちは海藻の「いご(イゴグサ)」にさつきの花の葉を入れて団子を作り常食としました。蔵人はこの団子を一度食べてみましたが、一口も食べられませんでした。蔵人は栄養が不十分な村人のために、毎日の食事から少しずつ米を貯え、分け与えたりしました。このような優しい思いやりと、逆に配慮のない者への批判は蔵人の真髄として最後まで発揮されました。
 蔵人が能登島で過す初めての夏は例年にない猛暑となり、7月頃から蔵人は体調を崩してしまいました。8月には病状は悪化し、死期を悟ったのであろうか前日に「かれて行く秋のすすきにうちそそぐ波にうらみの深き夕暮」と和歌を残し、9月3日の夕方、この地で波乱に満ちた生涯を閉じました。能登島へは江戸時代の初期の寛永13年(1638)から明治の初めまでの230年余りの間に113名の流刑者が確認されています。主に加賀藩の政治を批判した武士などでした。その流刑者の配所は一カ所に集中させて監視、労を行わせたものでなく、分散して各村に置く形をとっていて、当時の能登島20村のうち14村が受入地となりました。       能登島町   平成14年8月」

  彼が絵を画いたことは冒頭にも書いたが、彼は応養(おうよう)・静斎(せいさい)・王梁元(おうりょうげん)・乾泉亭(かんせんてい)と号して、秀作を多数遺しています。蔵人の絵画は自然を描いた山水図、竹石図、牡丹図などを好み、風雅に富み緻密な描法で描いた。文化5年(1808)蔵人のとき、文人画家として名高い浦上玉堂が彼の家を訪問したりなどして影響を受けたようです。なお彼の娘(名を志於、秀といった)も、父の影響を受け、また指導も受けたのだろう、絵を得意とし玉英、応姜と号して南画を描いた。現在金沢市の文化財となっている寺島蔵人邸跡には彼女の作品も展示してあるようです。蔵人は、自分に似て絵心のあるこの一人娘を非常に可愛がったそうで、能登島の配所からの手紙の中でも、一緒に絵の修業ができず残念至極と、書いているそうです。

(※1)当時加賀藩の年寄衆の最大の実力者だった奥村栄実が、寺島蔵人と上田作之丞について「はじめ寺島を竄(ざん(流刑にすること))せしとき、奥村丹後守栄実いわく、寺島は虎也。古語に前門虎を遂(お)えば、後門狼進むと。後門の狼不日に出ん。」と同語ったことが、同じ年寄衆の一人横山政和の日記に記され遺っている。なお上田作之丞は後に長連弘が藩政の実力者であった時期に、“嘉永の改革”を中心になって行ったことで有名な人物である。

(参考)
 ○「石川県大百科事典」(北國新聞社)
 ○「加能郷土辞彙」(日置謙編・北國新聞社)
 ○「加賀能登 史蹟の散歩—地方史の視点—」(田中喜男(北國出版社)
 ○「加賀風雲禄」(戸部新十郎著・中央公論社)
 ○「石川県の歴史」(山川出版社)
 ○「寺島蔵人と加賀藩政—化政天保期の百万石群像」(桂書房・長山直治著(金沢市史専門員)) 

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