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前田能登侍従利政

(2003年12月20日作成)

 前田利政は天正6年(1578)、利家の次男(母は芳春院)として尾張荒子(あらこ)(現名古屋市中川区)で誕生しました。この年42歳の利家は、越前国府中(現福井県武生市)3万3千石余りの大名であり、母のまつ芳春院(ほうしゅいん))は32歳、利長は16歳上の同母兄である。利政は、幼名を又若丸といい、天正12年(1584)の末森の合戦の直前、越中の佐々成政が養子に迎える話しも出ていました。のち利長から譲られて孫四郎を名乗ります。文禄2年(1593)9月、豊臣秀吉に能登国21万石の領有を許され、ついで従四位下(じゅうしいのげ)・侍従に任ぜられて能登侍従と称しました。16歳のこの年、蒲生氏郷(がもううじさと)の女籍(むすめせき)を娶りました。同4年(1595)頃から、能登に関わる文書が現れますが、実権は利家が握っていました。

 豊臣秀吉の傳役(もりやく)であった利家は、秀吉の死後、慶長4年(1599)大坂城に入りました。利長は父の補佐役、利政は秀頼護衛の詰番衆(つめばんしゅう)として、共に父に同行しましたが、同年閏3月の父の死で、兄弟の進路は大きく分かれていきました。
 利政は慶長2年(1597)小丸山城に入ったと伝えられますが、確証はありません。しかし父の隠居領から能登口郡1万5千石を分与され、22万5千石の領主となったことは確かなようです。長連龍(ちょうつらたつ)・高山右近重出(たかやまうこんジュスト)・村井長次(むらいながつぐ)等が利政を補佐していました。

 同5年(1600)石田三成が挙兵すると、利長は徳川家康の指示で兵を西に向けました。利政も兄利長の副として能登の兵を率いて加わり、石田方の大聖寺城主・山口宗永を討ち、反転して小松城主丹羽長重(にわながしげ)と浅井畷に戦いました。その後徳川家康の檄至りましたが、再度の出兵命令には応ぜず、関ヶ原の戦いの後、所領を没収されることとなりました。彼が中立を守った理由は、夫人(蒲生氏郷の娘)が、当時大阪方にあって石田・毛利方の人質にされたということ、母を徳川へ人質とした利長への反発、徳川敗北の際に備えた等、諸説があります。

 封を失った彼は、夫人と京都に上った後も、母や家臣との音信は続き、兄の病状を気遣いました。利長没後の大坂の陣でも中立を守っていました。冬の陣(1614)の時、豊臣秀頼は加賀・越前2国をかけて利政を誘うたがあえて応じなかったから家康はこれを嘉し、10万石を与えて仕えさせようとしたが、それも辞退したのでした。しかし、金沢城の留守居役三輪吉宗と密接に連絡を取り合っていたようです。やがて嵯峨に移り隠棲し髪を下ろしました。宗悦や宗西と号して、本阿弥光悦や角倉素庵(すみくらそあん)らと交わりました。寛永10年(1633)56歳で没しました。法号は福昌院怡伯宗悦居士で、大徳寺芳春院に葬られました。七尾市の霊泉寺も利政の菩提寺といいます。なお彼の嫡子直之(なおゆく)は、後に叔父利常に仕え、1万5000石で、人持組頭となり、八家筆頭の前田家土佐守家の祖となりました。
(参考図書)
「(図説)七尾の歴史文化」(七尾市)、「石川県大百科事典」(北國新聞社)

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