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馬身龍の戦死とその背景

(2003年7月4日加筆修正)

 大化の改新の頃の古代の能登において、強力な中央政権として能登を含むコシの人々に、新たな政治が厳しく迫ってきたのは「改新」の政治ではなく、「蝦夷」征伐の事業でありました。「改新」後、飛鳥では次々と大規模な土木工事が行われましたが、これに並行して日本海岸の「蝦夷」に対する征討事業が展開されていきました。 当時、中央政府の支配の及ばない関東北部・北陸東部から東北地方の人々は、古代貴族に「蝦夷(えみし)」と呼ばれていました。特定の地域の部族というより帰属があいまいな東北住民のことを「蝦夷」と呼んで蔑んでいたようです。

 日本書紀の第26巻に、「時に、能登臣馬身龍(まむたつ)、敵(あた)の為殺されぬ。」という文章があります。斉明天皇の6年(660)の春の事(弊賂弁(ヘロベ)嶋での戦い)です。これは大和政権が東北を支配下に置こうとして軍を派遣した時、ノトからも越の国守・阿部引田朝臣比羅夫が率いる軍団に加わって、北航、馬身龍を頭として戦いに参加している事がわかる一文です。
蝦夷(えみし)粛慎(みしはせ)に攻められて助けを求めてきた時の戦いで、戦いの地は粛慎(みしはせ)の国ということですが、現在ではどこかわかりませんが、蝦夷よりさらに北にあった国のようです。蝦夷よりさらに北方との関わりがある種族のことを中国の用例を借りて、呼んだものらしいです。粛慎は、中国の北方の沿海州付近(高句麗の北)に住んでいる民族であるといわれております。

 実は、この阿部比羅夫の北方遠征は、これで2回目でした。前回はこれより2年前で、斉明天皇4年(658)4月です。彼は180艘を連ねて日本海を北上しています。「斉明天皇4年4月、越国守阿部比羅夫が軍船180隻をひきいて蝦夷を伐つ、齶田(飽田)(あぎた)・渟代(ぬしろ)2郡の蝦夷望み恐じて降わんと乞う」と日本書記に記述があり、今の秋田市あたりに遠征したのではないかと言われています。その際、阿部比羅夫は、齶田の蝦夷の首長の恩荷(おが)に小乙上という官位を与え、ヌシロ(渟代(能代と思われる))・ツガル(津軽)の2郡の蝦夷の頭領を郡領(コオリノミヤッコ)に任命しました。

 更に北上して、有間浜(岩木川河口と推定)に津軽や胆振金/且(いぶりさえ)の蝦夷たちを集めて饗応しております。また有間浜に、渡島の蝦夷たちを集めて饗応しています。有間浜については、津軽半島の十三湊とする説が有力です。その後、阿部比羅夫は、更に北上して、肉入籠(シシリコ)(今の北海道?)に至りました。後方羊蹄(シリベシ)に郡領を置いています。同年7月には、それで200人の蝦夷が飛鳥の大和朝廷に朝貢に着ております。このときもおそらく能登の軍団は、
阿部比羅夫に従って遠征に赴いたと推測されます。

 第2回目の北方遠征では、ある大河の河口に来ると、渡島(わたりしま)の蝦夷が、「粛慎の軍が、船に乗って大勢で襲ってきて私たちを殺そうとしているので、助けてほしい」と阿部比羅夫に懇願しました。彼は、粛慎と接触するために、浜辺に染色した布・武器・鉄などを置いて様子を見ました。すると羽を木に括り高く掲げて旗とした粛慎の軍が船を連ねてやってきた。一艘の船から二人の長老格の老人がやって来て、布を持っていったが、またそれを戻しに来た。比羅夫は彼らを招いたが、応じないで、
粛慎は弊賂弁の嶋(へろべのしま)に帰って「柵」に立て篭もり、そして両軍は
交戦となった。

 
阿部比羅夫の軍は、粛慎のうち49名を捕虜としていますが、その時の戦いで馬身龍が戦死してしまったのです。この馬身竜の戦死が書かれた戦いの記述箇所に、船を200艘とありますが、費用は出陣する国の地方負担でしたから七尾から出港した船もあったと思われます。日本書紀が、地方の豪族の名を記すということは珍しいのですが、これは当時のノトの大和政権の中における役割、すなわち
東北支配の前線基地ということを表していると思われます。
 
 阿部比羅夫は、越国守と記す通り、越の国々管轄を任された天智天皇の武臣で、この2年前(658)にも、日本海を180艘の軍船で、北上し、飽田(秋田)・淳代(能代)に評(こおり(郡))を設け、帰属した蝦夷200人あま連れて帰還しています。

『日本書紀』によると、粛慎との戦いは、こうあります。粛慎の襲撃を訴えでた蝦夷の話を聞き、比羅夫は海のほとりや布や武器・鉄を積み置いた。すると粛慎の舟が近づき、現れた古老が品物を物色し、一部を持ちかえった。交渉成立かと思いきや、しばらくして古老がそれを戻しにやってくる。こうして戦闘が始まった。これは物々交換の現場を再現したもので、商談が成立すれば和であった。周辺民族支配と理念実現のためだけに遠征を繰り広げたのではなく、武威を背景に北方交易を有利に導こうとする思惑がみえかくれします。

 能登臣馬身竜は能登水軍の編成者であり、また自らも指揮者として従軍したのであります。能登半島は森林資源(船木)も豊富であり、波穏やかな七尾湾は、能登を視察した越中守 大伴家持 が「鳥総立(とぶさた)て、船木伐る 能登の島山」と詠んだように、造船に適しており、また軍需品や兵員・船員・兵糧の集約にも至便でした。天平勝宝5年(753)鳳至郡大屋郷舟木秋麻呂が、あしぎぬ(調布)を京に送った記録があり、同じ頃、東大寺造営に能登から船木部積万呂が雑役に従事したこともわかっています。
兵糧に欠かせない塩も、能登の沿岸は当時有数の塩の生産地(土器製塩)であったのでした(佐渡や越後への製塩は、ここから伝わったとされています)。この造船と製塩が結びつき、能登特産の塩と塩漬け海産物は、近隣地域以外は、主に東北方面に運ばれたのでした。兵士食糧用だけでなく、北方交易にもおそらく用いられたことでしょう。ただし、この能登の塩は、能登以西の若狭なっどでも製塩が行われていたこともあって、都の方へはほとんど運ばれた形跡はないようです。
 海岸から近い万行赤浦遺跡はその当時の集落跡で、多数の竪穴住居や掘立柱建物の跡を残していて、一軒の住居の中から、鉄鏃一括が出土している。おそらく軍事に関わる者の住まいであり、能登水軍の一員だった者とも推定されます。

 蝦夷などの北方の部族は大和朝廷の国造りの障害となり、大化3年(647)に新潟の阿賀野川河口に停足柵(ぬたりのき)が、翌年、40km北上した新潟県村上市の南西あたりに、磐舟柵が造られ、越と信濃の民を選んで柵戸(きのへ)を置いて防備にあたらせたといいます。
余談ですが、養老元年(717)にも山形県最上川南岸に出羽柵をつくり北陸道・四国の農民を送っていますが、これらの負担も、律令制度による農民に与えられた負担のひとつでありましたから、ノトから多くの人が送られたことは十分考えられることです。

 大和飛鳥の人々には一挙に支配拠点が拡大したと映ったかもしれませんが、能登の人にとっては、もともとの交流圏の範囲でした。磐舟柵のあった村上市の海岸沿いに磐舟浦田山古墳群がありますが、確認された横穴式石室墳2基は、いずれも短く狭い入口(羨道)を持つ古式の石室で、羽咋の滝大塚古墳の近くに6世紀前半につくられた羽咋市滝3号墳の石室に非常に似通っているそうです。また能登の製鉄業は、近畿や中国地方からではなく、東北から伝わったといいます。実のところ、能登とこのあたりは、6世紀から頻繁な往来が続いている地でした。大和政権による東北攻略は、能登をはじめとした沿岸諸地域のもとからの交流と交渉を基盤に成立していたのでした。

 水先案内を務めた能登臣馬身龍は、だから本当の所は、北方の民に憎悪を抱いてはいなかったと思われます。東北住民を蝦夷、または
粛慎と決め付けることで、大和政権は、逆に彼ら沿岸首長を政権内に封じ込め、交易の実益をも手中に収めようとしたのでした。

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