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(2000年10月30日加筆修正)
<縄文時代概説>
今から1万年ほど前に、永く続いた氷河期もようやく終り、温暖な時代を迎えました。
完新世((≒沖積世)⇒現世)への移行であり、極地の氷なども大量に解けて海水面も上昇して、島国としての日本も列島としての形を整えてきました。 日本海も形成され、対馬海流も流入し、北陸の冬は、名だたる豪雪地帯となりました。
気候の変化は、動植物の世界にも大きな影響を与えました。魚類などの大型獣にかわって、鹿・猪・キツネ・アナグマなどの中小型獣が山野に繁殖しました。暖流に乗って、新しい魚群も海辺へ姿を見せはじめました。人々の食料は、栗・胡桃・団栗(どんぐり)類・根菜類などの植物質のものへの比重を高め、狩猟の他に、漁労への関心も高めました。
こうした自然環境への変化は、生活技術の改善を促し、新しい文化を創り出すことになりました。旧石器時代から縄文時代への移行期(縄文草創期)にかけて、土器・弓矢・磨製石斧などの新しい生活用具を加えております。部分的に磨いて刃を作った石斧(局部磨製石斧)は、旧石器時代に出現していますが、縄文時代に入って全面を丹念に磨いた大小の石斧が現れました。
土器は食品の種類をひろげ、弓矢は敏捷に駆ける中小動物を巧みに捕らえる事を可能としました。磨製の石斧は。木製生活具の制作に威力を発揮し、木の文化を発展させることになりました。繊維を撚(よ)った糸や縄から、釣り糸や魚網も作られました。釣針は仕留めた鹿の角を細工しています。今から2千数百年前まで続く縄文時代とは、狩猟採集(漁労)民の世界であり、彼らの残した縄文文化の内容は、採集経済の中では、他に類を見ぬほど発達したものでありました。
<縄文の宝庫「真脇遺跡」>
奥能登の鳳至郡能都町真脇(まわき)遺跡は、富山湾に臨んだ小さな入江に面して所在しています。広さは約38000㎡あります。1980年代初頭 真
上の写真は真脇温泉からみた真脇の眺望です。 真ん中少し左よりの円筒形の建物が、真脇遺跡縄文館で、 その周りに遺跡があります。 |
脇地区は圃場整理の基盤整備事業の工事を控えて用水路付け替えを行おうとしていました。そのため昭和57年〜58年(1982、83)の2ヶ年にわたって県立宇出津高教諭の山田芳和氏らの努力で緊急発掘調査を実施しました。
それが数々の成果をあげ、全国的な話題となりました。縄文時代前期初頭から晩期終末にかけて、ほぼたえることなくムラが存続しており、発掘調査の結果では、縄文時代の前期(約6000年前)から晩期(約2300)年前までの実に約4000年間、自然の恩恵を受け、繁栄を続けた地であることが判明しました。採集経済段階にあった縄文時代では、食料を求めての移動性の高い生活が普通であったが、真脇遺 跡のような、土器型式でいうと23型式もの長期間にわたって存続しつづけた遺跡は、まったく稀 有でありました。それで調査団では、このような遺跡を長期定住型遺跡と名づけました。
考古学では、先史時代の遺物の判定方法ですが、下層の遺物は上層のものよりも古いという層位学的手法および、放射性炭素年代測定法などの理科学的な方法 を組み合わせて、ほぼ実年代が割り出します。
真脇遺跡では、水田下約1mから 4mの間に、ぶ厚い縄文時代の包含層が横たわっていました。それを詳細に見ると、前期以降各期 の遺物を含む文化層が、サンドイッチ状のみごとな層序をなしており、新旧の判定を容易にさせました。こういった点からも真脇遺跡は考古学の教科書的存在と言えましょう。また、大ていの遺跡では腐って残らない動植物質の遺物が、良好な状態で大量に遺存してい たのも、大きな特色です。真脇遺跡は標高6〜12mの沖積低地に立地しており、地下深くに存在す る包含層は、缶詰の中のような密封状態におかれていたからでしょう。
<真脇遺跡のイルカ漁>
トーテム・ポールに似た彫刻柱や、怒りを表した土製仮面も喧伝されましたが、真脇縄文人の暮らしぶりをもっともよく示していたのは、足の踏み場もないほど残されていた285頭ものイルカ骨(前期末〜中期初頭)でした。その多くに、5、60センチ単位の解体痕があった。
今日でも、真脇入江の周辺には、イルカやクジラ類がしばしば回遊し、江戸時代の古い記録にも、「真脇の河豚(イルカ)漁」の記載があります。それは昭和初期まで続けられ、「イルカの追い込み漁」と呼ばれていました。海流や海底地形の特徴が、イルカをこの海域に誘うのでしょう。
話は戻って、真脇遺跡だが、まだ発掘状況は、ムラ跡全体の10%にも満たないが、カマイルカ・マイルカなどで占められるイルカ類の出土固体数は、地下3mほど掘り下げたあたりからあらわれる前期末〜中期初頭の層で、確認された数は285頭に達しています。日本近海に住むイルカ類は2種類ほどあり、出土した骨の56%がカマイルカ、35%がマイルカで、この2種類が圧倒的に多く、他にバンドウイルカやゴンドウクジラ類でした。カマイルカは平均体重は約100kgあり、1ポンド(約453g)ステーキにして約170人分を賄えたという。
つまり 初夏の頃から夏にかけてやってくるイルカは、真脇人にとって見逃せない獲物であり、ムラ人が総出でイルカ漁に加わったであったと思われます。イルカは食料以外にも、脂肪は燈下用の燃料や薬として、骨も加工を施して種々の道具として、また皮もなめして利用されたかもしれない。干肉や脂肪は、他地域へ交易品として運ばれたであろう。この時期(前期末〜中期初頭)以外の層からもイルカ骨が出土していますから、遺跡の存続した全時期にわたってイルカ漁が行われていたことは、ほぼ間違いないと考えられます。このような真脇集落の稀に見る安定性を支えたのは、豊かなイルカ漁が存在したからだと考えられます。真脇遺跡は、イルカの恩恵による日本の先史時代における「まほろば」と呼べるような地であったのでしょう。
真脇で捕られ、解体されたイルカは周りの縄文の村に分け与えられていたことも金沢医科大学の平口先生によって最近明らかにされました。各村で仕事を分業したり、遠距離の村との交易も分かってきました。同遺跡から入江まではわずか200メートル。海を利用すれば、七尾まで直線距離にして約33キロ、氷見まで約52キロとわずかな距離だ。同遺跡からは舟のかいが出土しており、同遺跡発掘調査団主任調査員を務めた県立宇出津高教諭の山田芳和さんは「イルカの加工品をかめに詰め、丸木舟で一気に七尾辺りまでは持って行ったはず。さらに氷見などを経由して桜町遺跡(小矢部市・国道8号線の脇)などにもたらした可能性は十分ある」と推測しています。そもそも真脇遺跡と※桜町遺跡は土器の分類から、同じ文化圏に属していたとみられています。人々は同じ世界観や宗教観を共有し、同一の民族意識を持っていた可能性が高いと思われます。桜町遺跡でこの六月に見つかった目や耳を表現したとみられるトーテムポール状彫刻柱は、真脇遺跡で見つかったものと形状が異なっているもののほぼ同じ大きさで、共通する宗教観を示すものでがないかとして注目されています。
<真脇遺跡の主な出土品>
遺物包含層は厚く、縄文前期前葉から晩期後葉にいたる文化層が、地点をずらしながらも整然と堆積しています。
最も深い前期層は、地表下約3mにおよぶ為、常に地下水に浸された状況にあり、通常では残りえない有機質(動植物性の)遺物も良好な状態でそれも大量に遺存していました。特に、前期後葉から中期初頭の包含層ではイルカ骨はもとより、動植物の遺存体や木製・繊維製品も良好な状態で形をとどめていた。真脇遺跡は標高6〜12mの沖積低地に立地しており、地下深くに存在す る包含層は、缶詰の中のような密封状態におかれていたからと思われます。トーテム・ポール状の彫刻柱(現長約2.5m、最大径45cm、前期末)、舟の櫂(かい)、盆状容器(木製大皿)、縄、編物、魚骨、獣骨などの縄文人の暮らしの豊かさと技術の確かさを物語ってくれます(それから前期層からは人骨も出土)。彫刻柱ですが、長さ2m52cm、最大径45cmのクリの丸柱で、上半に3段の隆帯をつくり、それぞれに何かが彫刻されています。根元は、丸みをもたせて尖らせており、石斧で削ったあとがあります。
また、中期竪穴式住居の側に立てられていた大型石棒(男性器を表徴したもの)、後期初頭の最古の土製仮面、晩期の環状遺構などは、呪術的な精神活動の一端を示していました。
環状遺構ですが、クリ材の樹皮を剥がして半割にした大型柱で並べられ、直径約1mの巨大木柱根が続々と出土した。柱の配置は、弧の側を円の中心に向け、割った面を外側へ向いています。柱根は、環状というようにサークルを描いており、3つが重なり合う状態で現れました。サークルが重複していることは、この場所を離れることなく、つぎつぎと建て替えを行ったことを示しています。
真脇遺跡から掘り出された土器の量は、パンケースで約1,500箱。これら土器には、前期初頭から晩期までの、従来北陸で知られていた全ての型式が含まれていました。そして新たに真脇式土器群も出土しました。大量の土器(日本一の有孔鍔付土器(中期)、ランプ型土器(中期)、鳥さん土器(中期)、マムシを形象する装飾突起(前期)など)、石器、土製仮面や土偶などの土製品、石棒やヒスイ玉などの石製品、 骨角牙器など多種多彩な出土品や数多くの遺構は、縄文世界復原のためには大きな収穫であり、真脇遺跡は全国屈指の“縄文の宝庫“として認められ重要遺跡との評価が定着したのでした。
1989年1月9日、真脇遺跡は国指定史跡として 文部大臣によって告示されました。指定面積は、37,599.94㎡であり、発掘を行った面積約 1,300㎡の実に28倍の遺跡が保護され、静かに眠っています。また、平成2年3月22日出土品が石川県指定文化財となり、さらに大量の出土品のうち、219 点の各種の遺物が、1991(平成元)年6月21日、国より重要文化財(有形文化財考古資料)の指定を受けま した。そして平成10年に、昭和57年・58年の調査より15年ぶりに第3次発掘調査を再開、その後、平成11年に、第4次発掘調査を再開しており、出土品として、土器、石器をはじめ、玉類(ヒスイの小玉など)、石棒石刀類、装身具(人形形ペンダント、耳栓形耳飾り、楕円形ペンダントなど)などが出土しています。
平成元年1月9日国指定史跡となる。また平成9年9月17日には、真脇遺跡縄文館(博物館)もオープンして、身近に当時の真脇の様子を知ることができるようになった。
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