このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

藩主斉泰(なりやす)の能登海岸巡見

(1999年8月27日作成)

※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記と同タイトルのページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。

加賀藩主は初代利家から14代慶寧(よしやす)まで14人襲封したが、能登の足を運んだのは、初代利家と13代斉泰の2人のみであった。斉泰が能登に来たのは嘉永6年(1853)4月のことで、幕府へ諸外国が通商条約を迫るので、海岸防備の為に各藩主に自国の防備状況を巡視させ、不備なところを改善するよう命じたからである。(それにしても皆さん加賀藩主が利家以外1人しか能登巡見していないという事どう思われます。それも差し迫った状況に来てやっと腰を上げ、その上巡見というより観光旅行と言う感じ。あまりにも馬鹿な(少なくとも平凡過ぎる)藩主が揃っていた藩と言っても過言ではない、と私は思うのですが。凡庸な藩主しか出していないのに、これで加賀百万石と威張るところは威張っていたのだから、お笑いですよね!(これより前)の米沢藩主・上杉鷹山の真似事でもいいから誰か一人くらいそのような藩主がいて欲しかったなー、と思う畝源三郎です)
なにしろ前例のない藩主来訪なのと700人を超える大部隊の移動なので、藩役人をはじめ、来訪を受ける役人も、食物や夜具は勿論、風呂・便所にいたるまで、どの程度の準備がいるかの質問を投げかけている。
斉泰は4月4日に金沢城を出発、能登半島を外廻りして、半島の先端から内廻りして中島村へ19日に着き、橋本佐助宅で1泊。笠師・大津・田鶴浜を経て和倉に入り、温泉の新湯・古湯共にご覧になり、肝煎吉衛門宅で小休止された。吉衛門は胡麻を2升献上している。次いで祖浜村の八右衛門宅で小休止した際に、所口町の火事のニュースが入る。この日昼四ツ時(午前10時)、所口東新町より出火、372軒が焼失した。さいわい火も鎮まったので、所口の本陣越中屋喜兵衛宅へ入る。火事跡には葦簾(よしず)張りして見苦しく無いようにしてあった。途中で山王祭礼造山(デカ山)と三月祭飾山(チョンコ山)をご覧になられた。デカ山とチョンコ山を特別に造り藩主来訪を賀したのであろう。
途中、妙観院へお立ち寄り、御輿より出られ観音堂へ参詣、海上を見晴らせて、寺へ銀1枚下ろされた。翌21日、
越中屋喜兵衛宅を御発輿し、鍛冶町造山をご覧になられ、大田海門寺で千手観音を拝見、鹿渡島(かどしま)観音を拝覧して福勝寺にて中休み、江泊青木十左衛門宅で小休止、庵高橋弥惣左衛門宅で小休止、佐々波桑原九郎左衛門宅で小休止、山崎吉郎兵衛宅で宿泊。
翌22日、大泊まで海岸を巡視、山崎村へ帰り小休止し、多根村領の枡形砦跡をご覧、それより石動山へ登られた。七尾市域の概要はこの様で、25日には金沢城へ帰られた。

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