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パーシヴァル・ローエル「NOTO」抜粋・第ⅩⅢ章 能 登 街 道 |
あくる朝、私は人力車に乗って栄次郎のいう本街道を出ていった。この街道は、能登と他の地方を結ぶ幹線道路になっており、日本では昔からの幹線には中山道とか、東海道とかの名称があるが、この街道には名前が無い。
一般的な意味で本街道としか呼ばれておらず、この国での道路の重要性は、大都市に連結しているかいないかで価値が決まる。つまり田舎の地方だと、たとえ大きな街道でも特定の名称をつけられず、それは田舎にある裕福な親戚ぐらいな扱いを受けている。こうした道路は、都市から離れるにしたがって貧弱になってゆき、ついには見る影もない姿になってしまう。
天下に名の知れた東海道を通過しても、これでも大街道の一部かと、疑いたくなるようなみすぼらしい箇所が、都市と都市の中間にはある。しかし、街道は山野を畝々(うねうね)と、巡っている中に、時には山の中で大木の抱擁を受け、あるいはよく耕された平地では、松や杉の並木の間を延々と続いて、そこを旅する人の目を喜ばせるのである。
この能登街道には整然と立ち並ぶ歩哨のような並木は少なく、貫禄はあまり無いが、周囲の景色が絵のように美しいのだけは、決して他所の街道にひけをとるまい。旅の同伴として申し分ない美しさをもっている。
往来する旅人も多く、どの人を見ても元気そうで、商用かなにかの旅だろうが生気が身体中に溢れ、身体から外部へ放射しているようにさえ見える。他の人達が何と言おうとも、私は日本人は地球上でも最も幸福な民族であるといいたく、それは彼らに接すると、こちらの心が強く魅きつけられる事実でも明らかだ。
日本の道路のたたずまいや、道路上で出会うこの国の人達に共通の快活さ以外には、別に私の心を奪うものもないままに、旅は続いていた。その中に1つの滑らかな粘土の急坂が山の突端から出ており、道路上までそれはのさばり出ていた。
その坂では三人のいたうら小僧達が、着物の尻を地につけて、頂上から道路に向けてすべりっこして楽しんでいる。私も彼らの仲間になって遊びたかったのだが、大人である私はズボンの汚れるのが気になり、その勇気は無くなってしまった。
子供たちは、こちらが眺めているのに気がつくと、恥ずかしそうにスベリっこを止めてしまったので、私は母親の思惑も忘れて彼らに少しばかり小遣いをはずんで、遊びを続けさせることにした。この際、衣服の汚れることなどは誰も気にしなくていいのだ。いや、これは小遣いというよりも、サービスの入場料か、児童委員会のもと会員からスポーツ奨励補助金と考えた方が適切なのかもしれない。
こちらの身体の調子が悪くて、そのスポーツに参加できない場合には、後援者になるのが一番だ。この降って湧いた事件から推し量ると、能登の子供達は、世界のどこの子供達にも負けないほど、愉快な日々を送っていると断言できる。
粘土の坂ですべっている子供たちと別れるのは、淋しい思いであったが、次に私の目に映った光景は、様々な荷物を積んだ車を、女性達が牽きながら七尾へ向かう場面であった。これは、子供たちとは全く違った状況下に、彼女たちが置かれている実状を物語っていた。こうした女性の労働を目撃するのは、決して心地よいものではない。年老いた女の人に混じって、まだ若々しい美貌を保っている女性がいることが、私の胸を締め付けた。
能登は決してエデンの園ではないのだ。ここのアダムは筋肉労働という呪いを、こんなにも多くのイヴの弱々しい肩の上に背負わせている。kれはドイツの北部地方にみられるのと同じくらい、忌まわしいことである。能登へ入る途中、荷物の運搬に女の人夫を提供されようとしたが、あれは明らかにこの地方に潜む因襲の一つであったのだ。
日本へやってくる時、船の中で親しくなった日本の青年が、人力車の問題を取り上げて激しい反対論を述べた。人間を馬の代用にすることは、人間の尊厳も傷つけるのも甚だしいと極論したあの青年は、こ女性の荷車引きをみたらどのような言葉を吐くであろうか。
彼はドンキホーテ風の若者で、外国に学び多くの新しい思想を身につけて、帰国の途次であった。彼が身につけた新思想を自分の国で、実際に適用していこうとする意図に対して私は賛辞を惜しむ者ではない。しかし、それにより恩恵を受ける筈の、日本の現在の社会組織は、そう容易にそれを受け容れるとは考えられない。
人力車を1マイル走らせると、1セント3分の2の金が懐に入る魅力はそう安易に捨て切れるものではあるまい。
我々2人は、今日の旅程で43マイルの距離をリレー式に運んでもらうことになり、古い車夫はゆく先々で、新しい車夫と交代していく方法である。これは水面に生じる波の動きに似た性格を持ち、水の分子は往復運動するだけなのに、波はずんずん前方へ進んでいく。
しかしこの振動も意外に大きな場合があり、車夫の中には、25マイルも走りつづけた者があった。走っている間に時々、小休止をするだけですぐに駆け出し、道の悪い箇所や上り坂では、速度が落ちることが間々あったにせよ、彼らの持続力は一驚に値する。そうこうしながら、微笑んでいるような田畑の景色を通り抜け、左手に聳え立つ山々に慰められ、右手にやがて現れるであろう海の気配を感じながら、車の走るままに運ばれていった。
一時間ごとに天候は快適になってゆき、城のような形をした白雲を浮かべた青空は、私の空想力を益々高め、地上の道路は躍り狂うように、曲折する川のように谷間を巡り、村という村を訪れまわった。
あたり一面、いままさに田畑の耕作の最中で、風景はたくましい農夫達を点在させてその最盛期を誇っている。農村の建物は、あたかもその場所に地から生えているように見え、茅葺き屋根はその下の土にまでめりこみ、付近には色々な種類の草花が庭園のように生い茂っている。
樹木は花壇に化け変わり、そこに生えた草花は、風が吹くごとに通行人に愛嬌を振りまいている。家の周囲にこのように、ぼうぼうと草花を生い茂らせているこの家の住人は、きっと毎日を満足して過ごしている人なのだろう。芝や土の下に眠り、毎早く起きて仕事に精がが出せるということは、農夫達の自慢できるすばらしい特権だ。
加賀の国へ入る曲がり角までくると、我々は左側へ急カーブして越中の国へ通ずる峠(倶梨伽羅峠)にさしかかった。狭い谷間の道をぐるぐる回りながら登ってゆく間に、夕日の光があたりの山々の山腹を赤く染め始め、太陽は雲の間に逃げ込む準備をしているように見えた。
樹木たちは夕日の虹色の温かさに包まれ、年老いた太い幹の松の木さえ茂りあった枝々を紅潮させ、幹の地肌の出た部分は、太陽の「おやすみなさい」という最後のキスを受けていた。
その後の方には、夕闇が紫色を帯びた弓状をなして松林の付近を静かに上昇していった。私は峠の頂上に人力車よりも先に到着して、左手の急斜面を登った。先着に与えられた特権なのだと思いながら、高い箇所から峠のあちこちを眺め、特に今自分が駆け上がってきた道の反対の方をゆっくり眺めた。
コルクの栓抜きのように、螺旋状に曲がりくねった道を目が追いかけ、はるか下の方を見やると数百フィート下に茶店が一軒見え、さらにその大分先の低地には橋、そしてその向うはおおむね平坦で、道は間もなく峡谷に没している。道のあちこちには、せっせとしかし遅い速度で登ってくる旅人たちが見え、あたりの山々は、中腹ぐらいまでしか覗かせていなかった。
こうして私があたりの風景に見惚れている間に、人力車は一台ずつ右側の斜面から姿を現しては、左の坂へと下っていった。しんがりの車が大分前へ走っていってしまってから、置いてきぼりにされたのをくすぐったく感じ、私は傾斜面を這い下り、道路へ飛び降りて連中の後を追いかけた。
最後の車が、茶店の前で待っていてくれ、私を乗せるが早いかがらがら車輪の音を響かせながら坂を下っていった。我々は平気な気持ちでいるのだが、道路はそれ自身の急角度に遠慮したのか、数百フィート進むごとに、ゆるいカーヴを設けて車を右に左に回転させた。しかし、その度ごとに車の中の我々はぐらっと揺さぶられ、つぎのカーヴに駆け下りたかと思うと、再び車の振動に身を委せなければならなかった。
車夫達は大変な興奮の仕振りで、それこそ欣喜雀躍して、そのあまり叫び声さえ立てる仕末であった。峠の頂上まで登りきるまでに、苦心惨澹して蓄えたエネルギーの蓄積を、数分間で消耗し尽くすのに、誰も彼もが喜びの頂点を味わったのだ。橋の上では車輪の音をがらがら鳴らして渡り、平地をしばらく駆け続けてから峡谷に入ると、道路はまた下降していった。
十分くらいでこの坂を下りきって、平野に出、心理的な惰力に誘導されるまま、とうとう石動の町まで一気に意気揚々の中に乗り切ってしまった。
「能登街道」の章は、まだ少し続くが、越中(富山県)に入ったので、転載は、ここまでにする。ここまでが、ローエルの「NOTO」の能登関係の部分である。
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