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阿武松和助
〜幕末・明治の能登羽咋出身の大関〜
阿武松和助(本名:楠和助)は、幕末から明治初期にかけて一世の大豪力士「能登雷電」の異名をとった大関です。身長は176cm、体重121kgで肩幅が広く筋骨隆々の体格と怪力を生かし、得意技は「突っ張り」と「押し」でした。居合い抜きのような突っ張りで絶頂期には、一発の突っ張りで、相手を突き出したといいます。ただし、組んで上手を取られると脆かったようです。
通算 23場所 96勝18敗15分5預96休。優勝6回(1回目明治3年4月東前頭7枚目 7勝1敗1休、2回目明治3年11月東前頭5枚目 6勝1分2休、3回目明治5年4月西前頭2枚目 6勝2分1預、4回目明治5年11月東小結 8勝1休、5回目明治6年4月東関脇 7勝2預、6回目明治7年3月東関脇 7勝2分)
改名歴 槇割→里神楽→北ノ浦→兜山→雷電→阿武枩。(槇割と里神楽は、上京して阿武松部屋に入る前の4、5年の間、所属した部屋でつけられたしこ名ではなかろうか)
和助は、天保13年(1842)、羽咋(はくい)郡本江(ほんごう)の貧乏な農家に生まれました。和助の少年時代はとてつもない馬鹿力の持ち主で、田畑へやる肥桶も片手に4つ、両手合わせて8つもの桶をぶら下げて一度に運び桶ごとに畑や田へぶちあけたという逸話があります。その上、飯も七、八杯ぐらいでは腹の虫が納得しない大飯食いのため、貧農であった両親も彼をホトホト持て余していました。そんな折り、和助に奉公をすすめる人があり氷見の『げんじ屋』という酒屋へ下働きに行きました。『げんじ屋』では和助の怪力を重宝がりました。そして『げんじ屋』の主人は大の相撲好きであったため、江戸相撲へ彼を推しました。それで15歳の時上京し、20歳(1862)の頃に阿武松(幕下二段目 松ヶ枝)に見出されて入門した。
しこ名も北の浦とつけ序二段に名も載り、角界入りをした。北の浦和助はグングン頭角を現わし、明治3年(1870)兜山と改名、東幕尻へ入幕しました。その年は大関鬼面山をも倒して7勝1敗、同6年(1873)4月雷電震右エ門と改名してた。関脇から6場所土付かずで全勝優勝しました。この頃から姫路藩主・酒井忠邦公のお抱え力士となりました。酒井公との間ではこんなエピソードがあります。姫路藩主が羽織を与えようとした時に家紋を聞かれましたが、知らなかったので「輪(和)の中に介」を家紋としたと伝わっています。
和助は明治10年(1877)1月に5勝2敗1分2休で、西大関になっています。同年の6月場所は全休。その年の秋、故郷本江村で相撲興行をするために一行80余名とともに郷土入りをし、故郷へ錦を飾っています。その帰郷時の願書が羽咋市史編纂室主任の堀田成雄氏の協力で古記録から発見されました。
明治12年(1878)阿武松和助と改名、しかしこの頃から病を得たらしくこの年小結に落ちました。明治13年(1879)には関脇に上がったものの同年秋は全休、明治14(1880)年1月には、東小結で4敗の負け越し、同年5月、前頭3枚目に落ち、入幕してから11年目37歳で引退ましした。幕内23場所、勝率8割4分という驚異的な勝ちっぷりでした。
明治 5年から 3年間も無敗だった実力者ですが、地味で、色黒で容貌も優れないので人気が少なくて損をしたようです。能登人気質なのか誠実で品行方正、当時の力士としては珍しく相撲一途の生活を送りました。また全盛期に「年寄無用論」を唱えたので当時の相撲会所の重鎮達と折り合いが悪く、衰えても簡単に年寄襲名を許されませんでした。
年寄名は芝田山。明治19年(1885)6月7日、東京で病死(享年42歳)しました。病名は不明です。墓も何処にあるか判らないが東京・深川・浄心寺内・玉泉院にある。『阿武松緑之助』の墓に合祀されているのではなかろうかと、北国紙などは報じています。彼の晩年の様子は全く不明で、孫が千葉で現存しているといいますが手元に何の資料もないので、詳細は不明です。
(参考)「石川県大百科事典」(北國新聞社)、羽咋市商工会HP、日本相撲協会資料など
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