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その他の能登畠山家の家臣達
(2001年3月17日加筆修正)
○飯川光助(いがわみつすけ)
畠山義統の側近。文化人でもあり、招月庵正広が能登に下向してきた時(文明12年.・1480)、守護館や自分の館で催された歌会などに出た事などが正広の歌集『松下集(しょうかしゅう)』に記されている。
○飯川光誠(いがわみつのぶ)
畠山義総の側近。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。また天文23年(1554)の内乱後に成立した第2次「畠山七人衆」の1人でもある。
○寺岡経春(てらおかつねはる)
畠山義統の側近。飯川光助と同様、文化人であり、守護館や自分の館で催された歌会などに出た事などが招月庵正広の歌集『松下集(しょうかしゅう)』に記されている。
○半陰斎宗春(はんいんさいそうしゅん)
畠山義総の側近。飯川氏の出。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、歌道・連歌に執心したことでも知られる。
○井上総英(いのうえふさひで)
畠山義総の側近。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。
○後藤忠兵衛(ごとうちゅうべい)
戦国後期の諸橋文書「能登内浦村々給人注文写」に名前が見えることから、この頃畠山家の家臣であったことがわかる。給人とは、戦国時代、大名から恩給を与えられて家臣化した在地武士のことである。
○後藤総員(ごとうふさかず)
畠山義総の家臣。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。
○神保総誠(じんぼふさのぶ)
畠山義総の家臣。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。また天文23(1554)年の内乱後に成立した第2次「畠山七人衆」の1人でもある。
○神保与一(じんぼよいち)
畠山義総の家臣。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。
○神保八郎右衛門尉(じんぼはちろううえもんのじょう)
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では古君を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。
○伊丹八郎四郎
畠山義総の側近。義総のもとでの畠山文化の黄金期に、七尾を訪れた冷泉為和に歌道を師事し、その門弟となったことでも知られている。
○吉見統頼(よしみむねのり)
能登畠山氏の家臣。孫太郎。能登守護吉見氏の末裔で、畠山義統に仕えた。文明2年から明応2年、能登国鳳至郡櫛比荘(門前町)の田地を、能登總持寺に寄進している。
○丸山梅雪(まるやまばいせつ)(?〜1542)
能登畠山氏の家臣。清三郎家長。河内国(大阪府)の畠山宗家の家臣であったが、永正10年能登に移り、畠山義元・義総に仕えた。茶の湯を愛好した。名物茶器を多く所蔵していたことでも知られる。
○丸山出雲守
一宮の合戦にて戦死。
○丸山丹後
一宮の合戦にて戦死。
○伊丹総堅(いたみふさかた)
天文20年(1551)の内乱(畠山義続・温井総貞VS遊佐続光)後に成立した第1次「畠山七人衆」の1人である。
○伊丹宗右衛門
一宮の合戦にて戦死。
○平総知(たいらふさとも)
天文20年(1551)の内乱(畠山義続・温井総貞VS遊佐続光)後に成立した第1次「畠山七人衆」の1人である。
○平左衛門六郎
一宮の合戦にて、遊佐方につき、七尾方に生け捕られる。
○加治中務丞(かじなかつかさのじょう)
一宮の合戦にて戦死。
○誉田康俊(ほんだやすとし)
能登畠山氏の家臣。勘解由左衛門尉。畠山義綱に仕え、永禄初年に能登国鳳至郡の岩倉寺に武運長久を祈願して、所領の同郡大野村(輪島市)の田を寄進した。
○河野藤兵衛続秀(こうのとうべえつぐひで)
一宮の合戦にて戦死。
○栂雪軒(つがせっけん)
戦国後期の諸橋文書「能登内浦村々給人注文写」に名前が見えることから、この頃畠山家の家臣であったことがわかる。給人とは、戦国時代、大名から恩給を与えられて家臣化した在地武士のことである。
○渡辺源六(わたなべげんろく)
戦国後期の諸橋文書「能登内浦村々給人注文写」に名前が見えることから、この頃畠山家の家臣であったことがわかる。給人とは、戦国時代、大名から恩給を与えられて家臣化した在地武士のことである。
○山田四郎三郎(やまだしろうさぶろう)
戦国後期の諸橋文書「能登内浦村々給人注文写」に名前が見えることから、この頃畠山家の家臣であったことがわかる。給人とは、戦国時代、大名から恩給を与えられて家臣化した在地武士のことである。彼は、鳳至郡の藤波を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。
○東野七郎
戦国時代後期の諸橋文書の「能登内浦村々給人注文写」に名前が見える。給人とは、戦国時代、大名が恩給を与えて家臣化した在地武士のことである。よって畠山の家臣と考えられる。記録では鹿波を諸橋六郷沿岸部の給人として知行されている。
○斎藤氏
戦国期に、現在の鳥屋町春木に守護大名であった能登畠山氏の被官の館があったことが記されている。
○国分五郎兵衛(こくぶごろうひょうえ)
国分氏は戦国末期まで釶打の西方に50貫文の領地を持っていた土豪で、国分五郎兵衛は、七尾城落城前までの数年間、畠山氏の直領代官的立場で、(現中島町)釶打村内にあった西谷内城に拠っていたといわれています。
○佐脇源五(さわきげんご)
能登畠山末期の家臣。七尾城落城の際、上杉謙信に帰服して、その後以前国分五郎兵衛が拠っていた釶打村の西谷内城に謙信の命令で入り守備した。
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