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(2003年7月6日作成)能登空港開港記念

幻の基地・相馬飛行場

<田鶴浜町の相馬飛行場の跡と思われる一帯>


 今年(2003年)春、NHKスペシャルで、「海上自衛隊はこうして生まれた」という番組があった。戦後の平和憲法のもとで、一切の軍備を憲法で否定した日本であったが、即急には作れぬ海軍などの軍隊訓練の難しさから、いざ軍隊が必要となる緊急時の場合の将来を憂えて、戦後まもなく(昭和23年1月)旧海軍省の吉田英三大佐らを中心としたメンバーが、海軍の再建を研究する秘密委員会・Y委員会を発足させたのである
 「日本の軍備は、自衛防御のために必要であり、独立国として日本自らが行う必要がある。国家の軍隊は、国土と民族を防御するためには、私的犠牲を顧(かえり)みない」という考えのもとに発足したのである。多くの旧日本海軍の高官らが、公職から追放される中、そのような研究ができたのは、彼らが内部事情に詳しい旧軍人にしか対応できない第2復員局という部署についたからであった。彼らは旧海軍軍人の復員数や、旧海軍の種々のデータを自由に取り扱うことができる立場を利用し、5年の歳月で、再建計画の綿密な資料を作ったのである。そして朝鮮戦争をよいチャンスとしてとらえ、日本政府を飛び越え、アメリカ要人らも巻き込み、自衛隊という形で海軍を再建にまで導いていく経緯を描く、といった非常に興味をそそられる歴史ドキュメンタリーであった。相馬小学校にある相馬飛行場の石碑

 長々と、NHKスペシャルの内容を書いたのは、この放送の中で、海軍の航空機で警戒監視を行う範囲を示した地図が映し出された。その中で、扇形の範囲が10箇所ほど示してあり、その中心が各航空基地だというのであるが、その基地の1箇所にな、な、なんと、七尾か田鶴浜あたりと思われる場所が示されていたのである。
 私は瞬間的に、これは最近、新聞の地方関係の記事のところに報道されていた田鶴浜の伊久留に建設されたという相馬飛行場の位置ではなかろうか、と考えた。撤去されていても、そこならばすぐ、飛行場も作り直せたのではないかと考えたのである。その推測が正しいかどうかは、もっとY委員会のことを詳しく調べる必要があろうが、ここではY委員会の事を調べることは目的とはせず、これ以上書きません。それは、まず皆さんに地元でもあまり知られていない相馬飛行場について書き残すことがより有意義な事であり、能登空港開港記念の一貫の特集としても面白いのではなかろうかと考えたからです。

 相馬飛行場とは、終戦間近い時期に田鶴浜町の伊久留(いくろ)に、旧日本軍が作った飛行場のことである。一番機飛来の日が終戦で、数ヶ月で占領軍に撤収されてしまい、実際には役立たなかった飛行場のことである。米軍で命令で痕跡も残さない方針で撤収したため、今では、現地の長い水田地帯の地形から、その跡を推測できるだけで何も残っていません(上の写真参照)。

 建設がはじまったのは、
昭和20年(1945)6月であった。同飛行場は、北陸地方の制空権を守るために「田鶴牧場」の偽名で着工したのでありました。全国から集められた予科練生らが水田を土砂で埋め、滑走路には資材不足のために杉板を敷き詰めました。建設がはじまる2ヶ月前に、すでに米軍に沖縄へ上陸され、日本としては、あとは全ての航空機を特攻化することによって、本土進攻を阻止することしかない、と軍は考えました。そのために石川県でも小松海軍飛行場の補助飛行場が必要とされ、相馬飛行場の建設が即決され、実行に移されたのでした。

<相馬飛行場跡で見つかった滑走路に敷かれていた板
と相馬飛行場の位置を示す地図>


 また当時の七尾湾は、日本海軍の基地となっていて、撃沈を免れた艦船が何隻も避難してきていたりしました。また米軍に知られてしまっている海軍の呉軍港から海軍潜水学校を移転させ、海軍潜水学校七尾分校(穴水にあった)などが出来ており、国内最大級の潜水鑑も停泊したり、飛行艇の出入りも激しかったのです。5月25日に、B29爆撃機が七尾湾に機雷を投下していったことから、七尾の三菱重工などの工場を標的としたが空襲も間近いと考えられ、その迎撃基地として計画されたことも考えられます。

 この伊久留の地は、周囲が山で、埋め立て用の土砂が両側にあったことや、山に横穴をあけて格納庫や軍事施設を設けやすかったということも地理的要因として考えられます。七尾の徳田には、軍需工場(中島飛行機←私の父の記憶では)もあり、そこで作った飛行機を飛ばす計画もあったのかもしれません。

 飛行場の建設について述べる。昭和20年6月10日、相馬国民学校を突然訪れ、海軍将校が学校の明け渡しを要求、いったん帰るも、数日後には、学校の2階は海軍に占領されてしまい、学校を他へ疎開させねばなりませんでした。相馬国民学校は、そのまま飛行場設営隊の本部となり、建設設営部隊として元小松航空隊にいた北原大尉を長とする海軍予科練生と教員約400名、門田大尉を長とする朝鮮人労働者約200名がやってきました。北原隊の宿舎は、伊久留、西下、温井、町屋、盤若野、西三階の寺や民家の一部と相馬、高階の各国民学校に分宿しました。門田隊は、主に朝鮮人であったが、飛行機の格納庫用の洞穴堀りや軍用施設の建設に従事し、宿舎は主に吉田地区の民家の納屋などを借りて、それぞれに5、6人の飯場を設け、飯場主任によって管理されていました。宿舎の比較からわかるように日本人っとは差別を受け、その上、日本によって強制的に狩り出された人たちであり、つらい生活であったようだ。その他、近郷近在の勤労奉仕隊も、飛行場の建設にたずさわったようです。私の叔母や叔父もそこで働いたとのことでした。

 飛行場の大きさは、計画では全長1200m、幅50〜100mで相馬小学校にそって、突貫工事で作られました。埋め立て用地の土砂は、近くの向山の砂ダイナマイトで崩して、トロッコに積み込み、人力で押して運びました。向山から予定地の水田まで7箇所のレールがあり、10台のトロッコで運びました。物資乏しく作業員は雨着も支給されず、蓑姿という江戸時代さながらの姿で作業しました。コンクリートやアスファルトなども使えなかったので、松や杉の厚板(板厚6cm、幅30cm)を4寸角(約12cm角)の柱で作った組の上に並べて滑走路を作りました。爆弾を装備した特攻機が離着陸ができればいいだけのもので、約300〜400m、幅は中央部で50mほどでした。吉田側の山の上には対空陣地も築かれ、飛行場の爆撃に備えたようです。
 8月14日、滑走路が完成したようで、飛行機が一機飛来して完成状況を空から偵察しています。8月15日、相馬と同時に着工した愛宕飛行場(福井県武生市)と相馬に向かって小松から一番機が飛び立ち、AM10時に愛宕飛行場に着陸しました。しかし正午に終戦となったので、午後に着陸を予定していた相馬飛行場では、飛行機が一度も着陸しないまま終戦を迎えてしまったのです。

8月15日の戦争終結で、部隊の撤退は命令系統がしっかりとしていたので、粛々と行われました。滑走路の建設にあたった人々も、朝鮮の労働者を含めて、約1年ほどで引き上げたということです。アメリカの占領軍の命令で飛行場は跡形もなくこわされ、地元伊久留の人々によって水田に復旧させられました。現在の相馬小学校の敷地の一部も当時の土砂で作られたものですが、ほとんどが伊久留川にすてられました。こうして伊久留飛行場は跡形もなく消えてしまったのです。

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