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国人・高田氏
現田鶴浜町に高田という地名がありますが、承久3年(1221)9月6日の能登国田数注文に、「高田保」と見え、公田数2町6段9(もとは5町1段で)で、、寿永3年(1184)の券免とある。高田保は同注文の鹿島郡における記載から、現田鶴浜・高田・杉森付近に比定されます。
暦応3年(1340)8月高田彦次郎が、越前国金津上野(現福井市金津町)の合戦で北朝方の能登守護吉見頼隆軍に参加しており、同月17日から20日いかけて黒丸城(現福井市)の合戦でも高田弥次郎の山人が知られる(同年9月日「石河頼景軍忠状」天野文書)。彦次郎、弥次郎ともに高田保を本貫地とする武士で、同氏は後に能登の所領を失ったらしく、高田兵部丞(兵庫助とも)・同民部丞が流浪の身となって上洛し、温井楽阿弥から扶持を受けたが、明徳の乱における京都内野口(現京都市上京区)の合戦で、恩賞を得るために畠山基国の軍勢に加わり討ち死にした。彼らの老父が国許に送られてきた遺書を持参して上洛し、時衆道場で悲しみを語ったという(明徳記)。討ち死にによる論功によって民部丞の弟らが能登で所領を回復したものか、応永14年(1407)11月15日には高田中務入道道教が、鹿島郡酒井保(現羽咋市)の山林を永光寺(現酒井保)に寄進している(「高田道教寄進状」永光寺文書)。
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