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国人・得江氏

  2001年3月14日作成

 得江(とくえ)氏は、志雄保(現志雄町)の地頭で、弘安年間(1278〜88)に得江蔵人朝道が気多社と志雄保内の争論を和したりしています。南北朝時代には志雄越山を軍事拠点として、北朝方に組みしていました。
 暦応2年(1339)得江九郎頼員(よりかず)は、越前国に出陣し、越前守護斯波高経(しばたかつね)に軍忠の証判を受けています。また暦応3年(1340)には、得江頼員は能登守護吉見頼隆やその一族吉見十郎三郎に属し、越前に出陣し、頼隆に軍忠の証判を受け、高経には感状を得ています。翌年宮方の越中国司中院良定(なかのいんよしさだ)から頼員に対し、軍勢の督促が行われたが、応じた様子はみられず、吉見頼隆に属し越前に出陣した。康永4年(1345)から翌年にかけ、前越中守護井上俊清らとの戦いでも頼隆、氏頼に従って越中に出陣しました。この間、宮方の私年号(白鹿)を持つ感状が中院から頼員に発給されている。
 観応元年(1350)、頼員の子石王丸は、後見の長野五郎季光とともに(足利尊氏の弟)直義党の越中守護・桃井直常の挙兵に対し、能登越中各所を転戦し、尊氏党の能登守護桃井盛義から感状を得ています。翌年、越前に落ちた足利直義から本領を安堵されたが、足利尊氏の軍勢催促があり、播磨、近江に参じ、一方では三引保赤蔵寺(現田鶴浜町)に篭る吉見氏頼を救援した。
 文和元年(1352)足利義詮から参陣を求められ、延文4年(1359)には能登守護吉見氏頼から参陣を求められました。石王丸は、応安元年(1368)までに元服、得江八郎次郎季員(すえかず)と名乗り、
氏頼から本領を安堵され、翌年桃井勢と能登、加賀、越中各所で対戦しました。永和3年(1383)沙彌立阿(しゃみりつあ)から志雄保内50石田4段が季員に打ち渡されています。

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