このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

太平記ゆかりの地を訪ねて
(その1)

 「畝源三郎のぶらり旅」というコーナーはかなり初期の頃にはじめたコーナーであったが、それは各地方を訪ねた時の写真を、思い出とともに、その名所・史跡などが脚光を浴びた時代などに関係なく、紀行文的に綴ったものであった。
 しかし最近、太平記関係サイトのHPを訪ねて考えたのであるが、自分は歴史小説が好きであり、特に三国志と太平記は毎年1種類必ず読むほどであり、太平記に関しては色々と旅行して周り、撮影した写真もかなりある、これで1つの旅の写真集のようなものができるのではないかと。
 三国志は、舞台が中国なので、写真を色々と撮って周るのは、ちょっと無理だが、太平記関係なら、今からでもいくらでも増やせる。そう思って、このページをはじめました。
 撮影(旅行)した時期は色々ですが、今後意図的に太平記ゆかりの地を旅行して写真を増やしていきたいと思っているので、乞うご期待願います。

<高氏決起の地:丹波篠村>
 左の写真は、中国地方旅行(その1)と重複しますが、篠村八幡宮です。元弘3年(1333)5月7日、赤松氏などの後醍醐帝側の叛乱軍を鎮めるために来たはずの足利尊氏は、自分の領地である篠村で決起し、叛旗を翻しました。叛旗を翻したとは知らず、赤松などの叛乱軍を足利軍とともに、殲滅しようとした六波羅などの北条軍は、そのため大敗北します。
この篠村八幡宮は、尊氏が、決起後、京に向けて進軍している途次、源氏の氏神である八幡社があるのは有り難いと、立ち寄った所です。その際奉納した願文と矢塚や源氏の白旗を立てた旗立楊(はたたてやなぎ)(二代目)が今も現存しています。

 篠村は現在の京都府亀岡市で、今では亀岡市の歴史的遺物というと、明智光秀が建てた亀山城の方が有名かもしれない(亀山城址には寄らず)。ただし、明智氏は、美濃の名族・土岐源氏の流れであり、同じ源氏出身の足利尊氏の行動を真似て(?)、本能寺の変の際、ここを通り、老ノ坂を出てから南下せず、京の本能寺へ向けて急行したのです。現代の目で見ると、丹波の山を越えて西進し、備後に行くのが良さそうな気がするが、道の不便な当時にあっては、丹波から備後に向かうには、いったん西に進み老ノ坂を南下するのがとりわけ変わった選択ではなかったので、信長にも怪しまれなかったのです。尊氏を真似たかもしれない、光秀は尊氏とは違い、3日天下に終わった。歴史を活かすとは、難しいものだとつくづく感じます。
<南朝の都:吉野>
 左の写真は奈良県吉野の如意輪寺です。吉野への県道を東から登っていくと、最初に目にする寺である(といっても、道路際の山道を降りていくような形なのだが)。楠正成の長男・正行(まさつら)が、北畠親房に北朝との戦いの不甲斐なさを詰られ、出陣することになるのが四条畷の戦いです。その戦いに出陣する前に、赴いたのがこの寺です。境内には、後醍醐天皇の廟があり、正行はそこに行き、亡き帝に出陣の旨を報告したという。如意輪寺の壁板には、出陣に赴く楠党の各々の名前を過去帳のように書き連ね、その奥に、
 ”帰らじと兼ねて思えば梓弓なき数にいる名をぞとどむる”
と正行の歌が書き添えられている。
 これだけ悲壮感の漂う歌は、私は秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻が、その暗殺に向かう時に、見送りの者の前で詠った
 ”風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復(ま)た還(かえ)らず”以外に知らない。この寺にの仏殿には、死後七十七日の法要の代わりにと、各自の鬢髪が納めてあるといいます。
 左の写真は、如意輪寺の脇にあり、ちょっと石段の坂を登ったところにある後醍醐天皇の墓です。この天皇は、歴代の天皇の中では、確かに、出色の帝であったと思います。だから敵方の足利尊氏も、あれだけ尊敬していたのでしょう。よく知られた話しですが、足利尊氏は、元服の際、北条高時から「高」の一字をもらい高氏と名乗っていたのを、北条氏を滅ぼした後に、後醍醐天皇から建武の中興の第一の功労者として「尊治」の一字を与えられ、「尊氏」と改名しました。これは、勢力間の力をよく読んだ上での処世術も多少あるでしょうが、それだけではなかったのでは。二人の仲が、はっきりと分裂するまでお互いに心底憎めない関係だったように思います。いや尊氏は死ぬまで、後醍醐天皇は、尊敬していたのではないでしょうか。
 墓のあるあたりは、廟の金扉に錠前がしてあったせいもあるのか、雑草が生え、侘しさを感じさせる風景でありました。
 左の写真は、金峰山寺・蔵王堂である。この脇に、南朝の政治の中心であった吉野朝廷がありました。吉野は、この他にも勝手神社、吉野神宮、金峰神社、源義経がいた祠など名所旧跡が多い。桜の時期の花見だけでなく、史跡の歴史を詳しく調べて訪ねるのも、また一興ではなかろうか。
<楠一族の地:千早赤阪村>
 左の写真は、千早赤阪村で見つけた楠正成の生誕の地と書かれた石碑があった場所です。(正確には記憶していないが)確か、手前には楠正成をはじめとした楠一族の遺物や史料を集めた記念館のようなものがあったように思います。ホントかどうかわからないが出自は、橘諸兄(たちばなのもろえ)の末孫と自称していたらしい。楠一族は、後醍醐天皇の召しを受ける以前から河内、和泉、紀伊、摂津あたりで名の知られた「悪党」であったらしい。悪党の「悪」とは今でいうならパワフルという意味で、時には他人の田畑や荘園に押し入って横領をはたらく楠ファミリーというような存在であったらしい。つまりちゃんとした武士階級ではなく、商業階級出身の武装集団であったらしい。
 楠正成は笠置で帝の召しに応じると、直ちに赤坂や千早の砦に手を入れ、北条軍に公然と叛旗を翻す。「太平記」を読むと、楠正成は、すでに召しのある前から、今日の挙のあることを予期して、北条勢の糧道を断つために青田刈りをしていた気配が感じられる。
 
 左の写真は、上赤坂城です。他にも千早城、下赤坂城などあったが、時間の関係もあり、行けませんでした。数年前なので、はっきりと覚えていないが、この郭(平坦地)はあまり広くはなかった。数十人もいれば、座るところも無くなりそうな狭さであった。ここまで来る谷の所々にも小さな郭があったが、せいぜい2、3人が待機できるような感じではなかろうか。おそらくこういう待ち伏せ用の郭が谷のあちこちにあったのであろう。
 元弘元年(1331)、下赤坂城での最初の挙兵し立て篭もるが、10月末に下赤坂城が落ちると、ひそかに逃れ、翌年にはまた千早城とこの上赤坂城を築き、再び挙兵。12月には下赤坂城を奪還した。しかし翌3年には2月には幕府軍が、この上赤坂城を攻撃し、正成も粘るが陥落、千早本城に移って籠城した。
そこでまた幕府の軍隊を奇襲戦法で長期間悩ませました。そのうちに後醍醐天皇も配流の地である隠岐を脱出し、名和長年のもと、船上山に立て篭もった。赤松円心など各地でも叛旗が翻り、形成は逆転したのです。
 幕府崩壊後、後醍醐天皇は第一の功労者として足利尊氏を挙げたが、それは足利や新田などの源氏を差し置いて、与える訳にもいかなかったからで、何といっても、一番の功労者は楠正成と思われる。
<楠正成戦没の地:神戸湊川>
 左の写真は神戸市の湊川公園に立つ楠正成の銅像です。何年前に行ったかは、はっきりと覚えていませんが、この時の旅行では、自動車で移動していたので、確かこの公園の地下の駐車場に入れて、湊川一帯を散策したのを覚えています。
 この銅像は、馬に乗った有名な武将のものの中では3本の指に入るのではなかろうか。では他はというと、私が考えるに、仙台の青葉城跡の伊達政宗の像、もう一つは、埼玉県はJR熊谷駅駅前の熊谷直実の銅像です。
 最近、我が七尾市の小丸山公園(前田利家が能登という国持ち大名となって初めてて築いた小丸山城跡)にの中に、前田利家公の銅像も出来たが、あれはどうも台が低いせいかどうもチャチに見えます。どこかもっと他の広場に、台座も高くして立てれば良かったように思います。またこういう馬に乗った武将の銅像は、そうであってこそ映えるものではないでしょうか。
 左の写真は、神戸市の湊川神社である。左下の写真は、湊川神社本殿に向かって左側奥にある楠正成自刃の地(勿論境内)です。湊川の戦いでは、確か楠勢はわずかな手勢で朝方から夕方まで戦い、もはやこれまでという人数になってから、手ごろな小屋(であったか農家)を見つけ、皆で自刃したはずである。ここはその場所なのだろう。
 湊川の戦いを述べ出すと、この枠の中ではなかなか収まらないくらい太平記ファンにとっては、話しのピークにあるような重要な戦いである。三国志でいうなら赤壁の戦いに相当するだろう。

 この湊川神社の境内入り口の鳥居の横には、水戸光圀の像と彼が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑とを祀った祠があります。これらの写真もあるのですが、あまり容量が大きくなりすぎてもと思いカットしました。
 碑の方は元禄5年(1692)に、この楠正成の墓地を管理していた広厳寺の請願により正成の忠節と遺徳を顕彰し設けられたものです。この辺の事情については、「私本太平記」と同じ著者吉川英治の「梅里先生行状記」にも出ているので、興味のおありの方は一度読んでみては。どこまで真実かはしらないが、講談物水戸黄門に出てくる佐々木助三郎のモデル、佐々介三郎がその辺の普請を取り仕切るために湊川へ派遣されたようです。
 水戸家は尊王の考えが強かったので、後々もこの湊川神社のために尽くし、三百六十年祭り、四百年祭り、四百五十年祭り、五百年祭りはいずれも、この水戸家の協力のもとで行われたそうです。

 この湊川神社は、維新後に忠誠と正義とで生涯を貫いた大楠公を奉斎したいという多くの人々の要望を受け、天皇が明治元年(1868)に創祀のお沙汰書を下しました。同5年には鎮座祭りが行われ、国の為に尽くした偉人を祀る神社に贈られる別格官幣社に最初列格され、同13年には正一位が追贈されました。
<太平記の2度の戦いの舞台:金ヶ崎城>
 左の写真は、福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡・金崎宮です。左下の写真は、確か恒良親王か誰かの墓か石碑だったような・・・・・。そして一番下の写真は、福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡から見た敦賀市の風景です。
 
 この金ヶ崎城は、字から推測できるように敦賀湾の東側に突き出たちょっとした岬の山に築かれた城である。気比大宮司の居城であった。敦賀から越前の方へ抜ける峠道の横にあることから戦略上重要な位置を占めることとなる。そのせいか歴史上実に何度も表舞台に登場する。その最初となったのが、この金ヶ崎における足利方と、恒良親王を奉じた新田義貞の戦いであります。この時、後醍醐天皇は、
恒良親王に位を譲ると云って、偽の神器を渡しました。しかし、義貞はどうも最後まで信じた戦った節があります。他にこの城には、尊良親王も連れてきていました。
 建武4年3月6日、6万の足利軍に囲まれた本城はついに陥落します。義貞はかろうじて脱出しましたが、多くの新田一族の者が殺され、また尊良親王は自害
、恒良親王は捕えられて、京都で毒殺されることになります。
 尊氏打倒の復讐に燃える義貞は北陸一帯で3万の軍勢を集め、巻き返しを図ります。勢いづいた義貞軍は、足利勢の拠点を次々と陥落させ、暦応元年(1338)閏7月に、福井藤島城の攻略に向かいますが、500人という少数で守る城ながら強力な抵抗に遭い、戦は長ひいた。自ら本陣の燈明寺を出て、味方を鼓舞しようと、わずか50騎で連れて藤島に向かったところ、途中、燈明寺畷において、おりから戦場に向かっていた敵の精兵350騎と遭遇し、包囲されます。この時、部下は必死に防戦し、大将義貞に逃げることを勧めますが、部下思いで部下を裏切れない性格の義貞は、果敢に敵に向かい、自分の馬に5本の矢を浴びせられ、倒れた。起き上がろうとした義貞の眉間の真ん中に、一筋の白羽の矢が立ち、観念した義貞は、みずから首を掻き切って死んでしまった。享年38歳今にして思えばまだ若い盛りの年であった。

 この金ヶ崎が歴史上2回目の脚光を浴びるのは、足利直義が観応2年である。直義とそりがあわない高師直・師泰兄弟など高一族は滅ぼされたものの、なお兄弟喧嘩とも言える幕府内部の対立が収まらず彼は越前に下向します。その時、この金ヶ崎城に立て篭もり、一時尊氏軍と戦ったりしています。その後、直義は転戦し、関東に下り鎌倉に入ります。その後京都から攻め下ってきた尊氏軍と戦いますが敗れ、観応3年2月尊氏の手の者に毒殺されてしまいます。これが有名な観応の擾乱です。

 金ヶ崎城は、これ以外にも戦国時代に、明智光秀が将軍足利義輝を奉じて各地へさまよい、越前朝倉義景を頼った際に、一時義輝を預けたのがこの金ヶ崎城である。また元亀元年に、織田信長が、越前朝倉氏を織田方が攻めた時、妹婿であり同盟軍であった浅井長政に裏切られ、挟み撃ちにされ、一目散に退散するという敗戦の憂き目を見るが、その時、殿(しんがり)として木下藤吉郎が戦ったのが他ならぬこの金ヶ崎城であった。また賤ヶ嶽の戦いの際、柴田勝家が、ここを後方の根拠地として木の芽峠を越えて戦場に出向いている。その為賤ヶ嶽後の後退戦でも、越前平野に入る前の重要な拠点でもあることから、激しい防戦が行われた場所でもある。
 
<北畠親房・顕家父子ゆかりの地・多賀城跡>
 写真3枚は、宮城県の多賀城跡を写したものです。平成10年の秋でしたか、仙台松島方面を旅行している日に、一番最後に立ち寄りました。そのため夕方間近で暗く、フラッシュを焚いてもあまりうまく写りませんでした。
 一応上の写真から説明すると、一番上は、案内板にも書いてあるように、この多賀城跡政庁推定復元模型のものです(ただしこの復原図は8世紀後半の様子を推定とある)。その下は、多賀城にあった案内板である。奈良平安時代の政庁の建物の配置などが書いてあります。そして一番下の写真は、西翼廓跡の写真です。


 1334年北条氏が倒され、後醍醐天皇による「建武中興」の行われました。これにより150年続いた鎌倉幕府が崩壊し、天皇親政の時代が再現しました。しかし新政権の基盤はまだ弱く、武士の起こった関東や鎌倉に政権を揺るがすような勢力が、台頭する危険がありました。
 それで、関東の勢力が台頭してきた場合、都の方まで押し出させない、というより台頭すると同時に北から押し寄せ潰すために、奈良時代からの東北統治の要・多賀城に新政権の代理人を遣わし強い勢力を養い有力な味方を作る必要がありました。
 後醍醐天皇は、後の後村上天皇となる皇子の
義良(のりなが)親王を陸奥の特別国司に奉戴、そして元服間もないまだ16歳の北畠顕家陸奥守兼鎮守府将軍に、その父である北畠親房はその後見役として多賀城に派遣したのです。親房は、関東方面の後顧の憂をなくすためもあり、多賀城入城にあたっては、関東及び鎌倉の武将を多数引き連れて行きました。その為、関東は、一時、往時の面影もなく寂れたのに対して、多賀城は、その政治軍事組織の活況から、まるで東北の幕府のような観があったといいます。
 建武2年(1335)北条一族の残党北条時行
中先代(なかせんだい)の乱を起こすと、足利尊氏は、東征の勅をもらおうと後醍醐天皇に直訴するがかなえられず、勅許を得ないまま直義を救うべく鎌倉に進駐しました。乱を鎮圧し、鎌倉に拠って復命せず、自ら征夷大将軍を名乗り後醍醐天皇に反旗を翻しました。
 親房は、この時はもすでにう後醍醐天皇のもとにいましたが、北畠顕家はまだ奥州なので、彼は鎮守府将軍として奥羽勢を引きつれ南下し、京に上る足利勢を追うように、途中の足利勢力を蹴散らし、東海道を西上しました。そして京都で、足利勢力によって京の周辺に追われていた新田義貞、楠木正成、名和長年らの勢力と合流し、近江坂本の戦い三井寺の戦いなどで足利尊氏を撃破して九州の地に追いやったのです。
 顕家は、しばらく京都に滞在し、その後、「大」の字一字追加の奏請が許され、鎮守府大将軍となって奥州へ帰国しました。
 大方の南朝方の主立った者の大方(楠正成以外を除いて)が、尊氏は、九州の地で自滅すると考えたのに反して、彼は次第に力を盛り返し、多賀城も北朝勢の激しい攻撃にさらされるようになりました。
 そして再度、北畠顕家に足利尊氏追討の令旨が下った。顕家は多賀城を捨て、伊達行朝(ゆきとも)の招きに応じて霊山(福島県伊達郡)に拠点を移した。顕家は、奥州の味方勢力を結集し、義良親王を奉じて上洛の途に就きました。各地で北朝の勢力と戦い、鎌倉や美濃青野ヶ原で苦戦しながら勝ちをおさめますが、京都には入れず、伊賀伊勢を通り、吉野に向かおうと奈良に入りました。その後も戦いは絶えず、奈良や和泉で戦いを繰り返し、最後は、和泉国石津(大阪府堺市)で、討死にした(延元3年(1338))。若年ながらも優れた統率力と軍事の才能を発揮したこの貴公子は、わずか20歳にて夭逝命しました。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください