このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

大坂へ行った和倉の湯

※最初に、このページは七尾市から1999年市制60周年、七尾港開港100周年を記念して発刊した「(図説)七尾の歴史文化」の中の上記のタイトルと同じタイトル名のページを、ほぼ書き写したことを、記しておく。七尾市以外の方には、知っていただくことの方が大事だと考えたからだ。ただし私(畝源三郎)の知識が少しづつ増えたら徐々に加筆修正し、将来的には全面改訂を行なうつもりである。

江戸時代、大阪に居ながら和倉温泉の湯に入ることが出来たのは何故かとの疑問に答えるのが、大坂城天守閣蔵の「大坂湧浦館・和倉温泉引札」(「引札」(ひきふだ)とは現代の宣伝チラシである)。その引札には、「昨年御太守様始めて御順駕(ごじゅんが)」と書かれてあり、嘉永6年(1853)13代藩主斉泰(なりやす)の能登巡見を意味し、引札は翌7年に作成されたものであることがわかる。
この頃の温泉は、現在のように湯につかって、飲んで食べて一泊する楽しみではなく、農作業などで疲れた体を癒すいわゆる湯治が主流で、多くの病に効くことが自慢となる。それで引札にも中風など数多い病名が誇らしげに印刷されている。
天保8年(1837)2月、大塩平八郎の乱が起きた際に、その残党が、富木町(現在の石川県富来町)の福浦で何処へ行くのかとの検問にあったとき、その1人が和倉温泉へ湯治に行くと答えるほど大坂人に知れ渡っていた温泉でした。しかし、この頃の温泉は、海中の小さな島である湯島から出ていて、湯治用の建物建設は不可能であり、また陸地に内湯のある旅館を建設する資本もなかった。そこで、七尾の商人やお偉方は、七尾の旅館の風呂に和倉の湯を入れて湯治がわりにした。この風習が各地に広がり、金沢や富山や大坂までも湯が樽に詰められて船で運ばれるようになった。
最初は黙認していた藩も、湯の移出量が多くなったので新財源として、四斗樽(72リットル)1本に銀1匁(米1升ほどの値)を取り、樽に極印を打ち偽湯を取り締まった。この極印を打つ和倉村民が、〝つらにくい〟と思っていた小島の湯番徒和倉の庄五郎に与えられ色々なトラブルが起こってしまった。
ともあれ、この大坂への湯は大変人気があり、温泉好きな人々を居ながらにして楽しませた。
現在、関西方面の利用客が多いのは、近いことだけでなく、この樽湯の宣伝が行き渡っていたからだろう。

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