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(2004年6月20日作成)
北陸最古級の弥生遺跡
吉崎・次場遺跡
わが国の初期農耕文化を、弥生文化(時代)ということは皆さんご存知でしょう。稲作の技術は、朝鮮半島南部から北部九州地方に伝えられたとするのが通説であり、その時期は、およそ紀元前3世紀とされてきました。しかし近年、九州の縄文時代後半頃の遺跡から、立派な水田の跡が発見され、水田耕作民の渡来が、従来言われてきたより早くから始っていたことが次第に明らかになってきました。 北九州に波及した農耕文化は、かなりの速度で西日本各地に広まり、弥生時代前期末頃には、日本海側では、丹後半島付近まで達し、弥生時代中期に能登に達したようです。約2200年前のことです。
ここの頁で紹介する吉崎・次場遺跡は、邑知地溝帯の南西端、能登半島の付け根に位置します。羽咋川河畔の微高地上に形成された弥生時代の集落跡です。昭和27年(1952)の羽咋川改修工事の際、発見されました。しかし戦後間もなくということもあり、本格的な発掘はすぐにはおこなわれず、昭和31年(1956)と昭和38年(1963)に初の本格的調査が行われ、この時、弥生時代のまとまった土器や、小型の銅鏡などが発掘され、吉崎・次場遺跡の名が知られるようになりました。その後、昭和40年代から50年代にかけて、道路の改修工事や、水田の圃場整備が計画され、遺跡がなくなる恐れが出てきたために、羽咋市教育委員会が調査したところ20ヘクタール以上にわたって遺跡が存在することがわかり、保存すべき部分を確認しました。これらの活動により、昭和58年(1983)に国の史跡に指定されました。昭和61年(1986)からは指定地の買い上げが行われました。平成元年(1989)には、発掘調査のための委員会が設けられ、平成7年から9年にかけて発掘調査が行われました。調査した面積は3年間で合計2,200㎡、これは指定地の22%、約1/4にあたります。遺跡は、弥生中期初頭(最下層)、中期中葉(下層)、後期後半(上層)からなり、集落が最大規模となるのは上層の段階である(なお、一部には平安時代集落も複合しています)。そしてこれらの成果をもとに、平成9年から10年にかけて文化庁の「ふるさと歴史の広場」事業として整備され、平成11年「吉崎・次場弥生公園」としてオープンしました。
この遺跡では、弥生時代の水田耕作の生活様式にあわせたのでしょう、羽咋川河畔の微高地上に形成されており、縄文時代からの伝統的な竪穴式の住居はありません。どうも竪穴式は向いていなかったようです。住居は、当時の地表面を床として、まわりに土堤をめぐらし、内側に平板をさし並べた平地式の住まいを工夫したようです。住居としては、内部が40畳以上ある大型の建物や10畳くらいの建物が見つかっています。
この2つの住居は現在、実際あった場所に復元されています。またムラの共同の食料倉庫と思われる高床式の倉庫も見つかっております。長辺が4.8m、短辺が3.1mの建物です。この建物も、土器や銅鐸に描かれた絵を参考にして復元されています。
これらの建物以外にも、ここからは70m以上に及ぶ大溝が発掘され、現在その一部が復元されています。 弥生時代のムラが縄文時代のムラと最も異なる点は、溝のあり方です。溝は米作りや生活にに欠かせないものでした。弥生時代のムラ作りはまず溝を掘ることから始まります。邑知潟に面した低地は水が集まり易く、水害対策や用水掘削のために土木技術が発達したようです。発掘調査でも、大溝に溜まったゴミ・泥などを浚(さら)え、掘り直しを行ったことがわかっています。当時は上流からの水を受けて、ムラの周囲に巡らしたり、下流の必要な部分に放流していたとみられ、さらに近くの水田に繋がっていたと考えられています。
吉崎次場遺跡を発掘すると、ムラの中を大小様々な溝が流れていたことがわかります。公園内に復元された溝は、この弥生時代のムラの中でも一番大きなもので、幅3〜4m、深さ約1mにもなります。このような大きな溝を掘ると、掘りあげた土は溝の近くに盛り上げ、固めて土堤にしたようです。こうして洪水などから弥生期のムラを守ったと考えられています。またこれだけの溝を掘れたことから、ムラがかなりの大きさがあったからだと想像できます。 またこの場所を発掘した時に、溝の中から米作りの道具(鋤)、木を切り倒す石の道具(石斧)とその材料が見つかっています。おそら弥時代にムラが出来た当時、ここは能登の中心的役割を果たしたムラであったと思われますから、ここで作られた道具は他の地へも配られたのでしょう。
これら以外にも、貯蔵穴用土壙・土壙墓群・配石遺構・井戸跡(桶形の木製容器を転用して枠とした)なども見つかっています。また各期にわたる多量の出土土器は、北陸の弥生土器編年上、きわめて重要な内容をもっています。木器には鉄斧着装用の柄や鍬・エブリ・庖丁形木製品などの農具があり、石器には石斧やアメリカ型を含む石鏃、環石、有樋式磨製石剣(断片)、未成品を含む玉類などもありました。つまり簡単に言うと、狩や漁の道具、農具、物を加工する道具、アクセサリーなど色々な石の品物ありました。これらの石の道具のうち、中には材料が、遠く新潟や埼玉県で採れた石もあり、また土器の中に関東や信州系の土器もあり、弥生時代の交流によって、色々な物が遠くから運ばれてきたり、遠くまで出かけて交易していたことが窺がえます。
これらの出土品のうち、特に注目されるものは、棒製小型内行花文鏡1面と懸垂用とみられる四ち鏡片の出土でありましょう。
最後に、吉崎・次場遺跡の指定部分のうち、発掘されたのは、まだたったの22%です。78%の残りも順次発掘され、新たな驚きを呼ぶ発見がなされることを期待したいと思います。
(参考)
吉崎・次場遺跡の各種案内板
「図説・石川県の歴史」(河出書房新社)
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