このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

本朝神仙伝が語る陽勝


 「本朝神仙伝 10−11」 
 陽勝は、能登の国の人である。俗姓は紀氏である。その母は、夢に日の光を呑みこむのを見て、懐妊して彼を生んだという。元慶3年に比叡山に登って、宝幢院に住んだ。11歳の時に、空日律師を師事した。人となりは、はなはだ聡明にして、一度学んだことは決して2度と聞くことはなかった。法華・瑜伽・摩訶止観に通じていた。一生喜怒せず、また睡眠もとらず、胆石の蓄え(わずかな米穀の蓄え)もなかったが、自分の衣食を持って、飢えや寒さに困苦している人に与えた。

 後に、金峰山に登って、牟田寺にとどまり住んだ。三年苦行して、毎日粟一粒だけ食べた。彼の足腰は強靭で身軽で素早かった、翼がないけど飛べ、冬の月になっても、衣を着なかった。延喜元年の秋、遂に、仙人になって仙界へ登ってしまった。
 同じ延喜18年、東大寺の僧が、神仙が住むという峰に詣でいたり、米と水の両方とも断って、ほとんど命をおとしそうになった時に至って、法華経を唱える声を聞いた。驚いて、起きあがって、その声の主を捜し求めていると、偶然にも、陽勝に遭遇した。鉢と瓶(かめ)とに、向かって、呪文を唱えると、しばらくして、玉膳が鉢に満ち、水が鉢にあふれた。

 陽勝がいうには、「私には、故郷の祖父(おや)、故山(比叡山?)の親友がいる。願わくば、これを持っていって、その人たちに伝えてください。陽勝は、仏を見、法を聞いて、天に昇り地中に入れるような、人知ではかり知れないような不思議な変化を意のままにできるようになった」と。

 12月、祖父(親)が病になっていうことには、「私には、子や孫が多いといっても、その中でことに陽勝を愛していた。しかし一度故郷を去ってから、再びここに来たことはない。ああ悲しいことだな。もし神仙の力を得たならば、何でここに来て、私をよ見うとはしないのか、といった。陽勝は、その声に応えて、祖父の家の屋根の上に至り、経を誦えた。しかし、ただその声のみ聞こえるばかりで、姿は見せなかった。

 また陽勝は、西塔の毎年8月の不断念仏のときに、必ずやってきて、これを聞くのだった。陽勝が、人に言ったところによると、この山(比叡山)は、多くの信者の施しを受けており、その為、火焔が虚空を満たしている。しかしこの念仏を行っている時のみ、火焔はしばらくの間、晴れわたってなくなり、依って、下ってくることができるのだといった。「季の葉に及びて見えず(ちょっとどういう意味か不明、訳せず)。」
同じ事が、別伝にも書かれている。
 「本朝神仙伝 10−12」
 陽勝の弟子の童は、もとは、千光院の延済和尚の童子であった。仏道を修行して、ついに長寿の秘訣を得た。彼は、かつて陽勝を師としていた。

 ある年、元興寺の僧が金峰山の東南の岩屋を一人で占拠して、一夏の間、そこに寝起きして、法華経を誦えていた。長雨が10日間にわたって、降り続き、飲食できない日が続いた。黄昏に忽然と青い衣を着た童子が現れ、自分のもとにやってきて、一物(仙薬一丸)を授けて、食べさせた。食べてみると、その味は甘かった。僧は、童子に問うた。
 「貴方はいったい誰なんだ」

 童子は、答えていうには、
「私は、延済和尚の童子である。長く陽勝に仕えて、仙人の道が成就してよりこのかた万里の道も遠く感じなくなった。三山五岳も全て残さず巡り歩いている。貴方が、困苦し、窮乏していることを愍(あわ)れんだがゆえにやってきたのだ」と言うことだった。そして言い終わると去ってしまった。このことは、陽勝の別伝(陽勝仙人伝)にも書かれている。

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