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今昔物語が語る陽勝

  「陽勝、修苦行成仙人(苦行を修めて仙人となること)語第三」
 今は昔、陽勝という者がいた。能登の国の人である。俗姓は紀氏(きのうじ)。11歳のおりに初めて比叡山にのぼり、西塔の勝蓮華院(しょうれんげいん)の空日律師(くうにちりっし)を師とした。天台の法文を習い法華経を受けた。彼は聡明で、一度聞いたことは二度と聞くことはなかった。また幼い時から道心が強く、他のことにはほとんど興味を持たなかったといいます。睡眠をむさぼることもなかったし、戯れに休息を取るということもしなかった。

 人々を哀れむ心が深く、裸の人を見れば、自分の衣を脱いで与え、飢えた人をみれば、自分の食事を与えることを常としていた。また蚊やキササ(虫ヘンに幾と書く−何の虫かは不明)が体を刺すのも厭わなかった。そして自らすすんで法華経を書き写して日夜それを読誦していました。

 しかるうちに、堅い道心を抱くように(つまり道教に関心を持つように)なり、比叡山を去ろうという気持ちがおこりました。そしてついに比叡山を出て、金峰山(奈良県吉野奥千本から南方は大峰にいたる連峰)の仙人の古い室(むろ)に至りました。また南京(吉野)の牟田寺に籠って仙人の法を学びました。

 修行の始めは穀断(こくだち)である。穀物を一口に入れず、山菜だけを食べる。次にはその山菜も断ち、木の実や草の実だけを食う。その後はもっぱら食を断ちました。一日に粟一粒にして、身には藤の衣を着るだけである。そして遂には、食べることもしなくなった。永く衣食への思いを断って、とうとう菩提心、つまり、煩悩を去って、悟りの境地に至ったのです。するとその後、烟(けむり)のように跡をとどめないで消え去ってしまった。着ていた袈裟を脱いで、松の木を枝に懸けていなくなってしまいました。その際、袈裟を経原寺の延命禅師という僧に譲る旨を書き置きました。

 禅師は、その袈裟を得ると、陽勝僧都のことを思い慕い、悲しみに明け暮れました。禅師は、山々や谷々を巡って陽勝を尋ね探したが、決して居所を見つけることはできませんでした。

 その後、吉野山で苦行を修する僧・恩真などがいうことには
 「陽勝僧都は、すでに仙人となっています。体の血や肉がなくなって、奇妙な骨と毛だけが生えていました。そして背中に2双の翼が生え、その空を飛ぶ姿は、麒麟か鳳凰のようでした。龍門寺の北峰でこの姿を見ました。また吉野の松本の峰に、同じ天台宗の僧に会って、年来疑問に思っていることなどの問いを請けて談じあったそうです」ということだった。

  また、笙(しょう)の石室に籠って修行していた僧がいました。彼は食が絶えても幾日かが過ぎ、それでも食をとらないまま法華経を読誦していた。するとその時、青い衣を着た童子が現われ、白い物を持ってきて僧に与えてこう言った。
 「これを食べてもいいよ。」
  僧は、これを取って食べてみると、極めて甘く、飢えていた心が癒えた。僧は童子に
 「あなたは、どなたか?」と聞いた。

 童子が答えていうには「私は、比叡山の千光院の延済和尚の童子であるが、叡山を去って長年苦行を修め仙人となったものである。近来の大師は、陽勝仙人である。この食物は、陽勝仙人からの心を籠めた贈り物です。」ということであり、そういうと去ってしまった。

 その後また、陽勝仙人が東大寺に住む僧にに会ってこう語ったという。
 「私はこの山(比叡山)に住んで50年余りになりますが、歳も80余歳となりました。仙人の道を習い得て、今では空を飛ぶことが自由自在にできるようになりました。空に昇っていくのも、地の中に入っていくことにも何の障害もありません。法華経の力に依って、心任せに、仏を見奉り、法を聞き奉ってきました。世間を救護し有情(この世に生きているすべての感情を持っている生き物)に利益となることを、全て十分に施すことができました」

 また、陽勝仙人の親が本国(能登)にて病に伏せて苦しんで煩って、その親が嘆いてこういった。
 「私には子が多いといっても、陽勝仙人がその中で一番愛した子であった。もし、私のこの心を知りうるならば、ここに来て、私を見てほしい」
陽勝は、通力でこのことを知り得て、親の家の上空に飛来して、法華経を誦えた。その声を聞きつけ、家の中から人が出てきて出てきて、屋根の上を見たが、誦唱の声は聞こえるがその姿形は見えなかった。

 陽勝仙人は、親に申していうには
 「私は、長い間、現世を離れて人間のもとに来ることはなかったが、孝養のために今日は強いて来ました。経を誦えて詞で神通力を示しましょう。毎月18日、香を焚き、花を散らして、私を待ってください。私は、香の烟(けむり)を尋ねてここにやってきて、降りてきて、経を誦え、法を説いて、父母の恩徳に報いましょう」というだった。それをいうと飛び去っていってしまった。
 
 また陽勝仙人は、毎月8日に必ず本山に来て、不断の念仏を聴聞し、伝教大師(最澄)の遺跡を拝み奉った。他の時日には来ることはなかった。すると、西塔の千光院に浄観僧正という人がいたが、常の勤行ということで、夜になると尊勝陀羅尼を終夜誦えていた。長年修行して十分な結果が得られたので、それを聞いた人はみな彼を貴(尊)んだ。

 そしてある日、陽照仙人(=陽勝仙人)が、不断の念仏を聴聞しに参ったところ、空を飛んで渡る間、この僧がいる房の上を通過している時、浄観僧正が声を大きくして尊勝陀羅尼を誦えているのを聞こえてきた。その貴い(ありがたい)声に強く惹かれ、房の前の椙の木にとまって聞いていると、いよいよありがたく感じられ、木から下りて、房の高蘭(堂宇などの部屋の外側に張り出して造る欄干のこと)に座った。

その時、僧正は、その姿をみてあやしみ
 「貴方はどなたですか?」と聞いた。それに答えて彼がいうには
 「私は、陽勝でございます。空を飛んでここを過ぎる際に、尊勝陀羅尼を誦えられている声を聞いて、ここにやってきました」とのこと。

 それで、僧正は妻戸(両開きの板戸)を開いて、陽勝仙人を部屋の中に呼び入れた。陽勝仙人は、鳥が飛び入るかのように、部屋に入って、僧正の前に座った。長年の積もり積もった話を終日色々と話あって、明け方になってから、
 「では、もうそろそろ帰らせていただきます」と言って、座を立ったが、人間界の気に触れて、身体が重くなってしまい、空に飛び立つことができなくなってしまった。それで陽勝が言うには、
 「どうか香を焚いてその烟を私の近くに寄せてくれませんか」と。

 僧正は、香炉を近くに差し出し、陽勝に寄せた。するとたちまち仙人は、その烟に乗って空に昇っていった。この僧正は、長い年月の間、ずっと香炉に火を焚いた、烟をたやすことがなかったということです。
 
 この仙人は、西塔に住んでいた時、この弟子であったのです。そうであったので、仙人が帰った後、僧正は陽勝のことを非常に慕われ、悲しみんだと語り伝えられています。

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