このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
(1999年8月12日作成)「(図説)七尾の歴史と文化」の同タイトルのページを転記
所口町には、町年寄・惣肝煎(そうきもいり)・町横目・祐筆役(ゆうひつやく)などの町役人がおり、他に散肝煎(さんきもいり)といわれる米肝煎・魚肝煎・船肝煎などの諸産業関係の役職があった。これらの町役人は式日(毎月朔日・6日・11日・21日.26日)といって、決められた日に役所に出勤しなければならなかった。町役人の勤めたところは最初、寄所(よりどころ)と呼ばれ、その後、文政3年(1820)5月寄所を町役所と改め、さらに安政元年(1854)には所口会所と改められた。
嘉永4年(1851)を例に町役人の状況を見てみよう。町年寄は町役人の最高位で、由緒ある豊裕な上層町人から登用され、所口町全体の町政に当たった。人数は4人であるが、町年寄の中には名字を許されたり、越中屋喜兵衛のように海商として日本海を舞台に活躍した者もいた。横目肝煎は6人で、町肝煎の監督と共に町役所の不法なども監視した。算用聞(さんようぎき)は町に関する会計事務を担当した。
町肝煎には、府中町肝煎・東西地子(じし)町肝煎を始め、20人の町肝煎がおり、各町を支配させた。 町肝煎は戸口調査・宗門吟味・物成・役銀の徴収などを主な任務としていた。町肝煎の支配する各町内は、さらに10軒前後の町家が1つの組を作っていて、これを10人組と呼び、町を構成する最小単位である。この10人組を数組あわせて組合を作り、その責任者として組合頭が置かれた。
十人組と組合頭の主な任務は、家督相続・財産処分に関する遺言状、家売買に関するものであり、町人生活における基本的な事項を取り扱った。十人組を構成する亭主(家持ち人)は、町役銀・地子銀などの諸役銀上納の他、箱番や亭主番・夜番など町内見回りの義務もあった。
嘉永4年 所口町役職名一覧 | |||||||
役職名 | 人数 | 役職名 | 人数 | 役職名 | 人数 | 役職名 | 人数 |
町年寄 | 4 | 人別方 | 1 | 蔵宿下才許 | 2 | 水主宿役 | 2 |
町年寄並 | 2 | 魚問屋 | 2 | 旅人調理役 | 3 | 大工肝煎 | 3 |
惣肝煎 | 3 | 制産方算用役 | 3 | 御口銭取立役 | 20 | 転馬肝煎 | 2 |
町肝煎 | 20 | 船肝煎 | 2 | 苧かせ吟味役 | 4 | 樋屋肝煎 | 1 |
蔵縮役 | 4 | 質屋肝煎 | 1 | 酒屋肝煎 | 4 | 湯屋肝煎 | 2 |
制産銀主附き | 4 | 米肝煎 | 2 | 用米差引役 | 4 | 売薬人宿役 | 1 |
後用銀主附き | 4 | 古手古金肝煎 | 1 | 諸色吟味役 | 6 | 紺屋肝煎 | 2 |
町横目 | 6 | 素麺肝煎 | 2 | 御荷物宿 | 1 | 豆腐屋肝煎 | 1 |
祐筆役 | 1 | 木挽肝煎 | 1 | 御用銀算用役 | 1 | ||
町役所留書役 | 1 | 難渋人見届役 | 4 | 魚肝煎 | 1 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |