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(1999年8月8日作成)

日本海交易と七尾の豪商

<日本海交易と七尾船>
 近世の日本海は、米・大豆・鰊・昆布・酒・綿・塩・砂糖・縄・筵などの物資を積んで往来する多数の船で賑わっていた。
 天然の良港である七尾は、古代から能登の産物の集散地として重要な存在であり、近世の日本海交易でも七尾の船主が活発な廻船活動を展開していた。江戸時代に入っても寛文6年(1666)3月にもう青森下北半島の佐中村へ材木山の仕入金を貸し付けている七尾惣右衛門の記録がある。

 また北海道の江差の関川家客船帳には、16人の七尾の船主が登場する。この中で最も多く入港しているのが津向屋仁兵衛である。仁兵衛は、松前商人の雇船船頭として松前・蝦夷地間の交易に従事したり、栄徳丸・栄吉丸・栄悦丸などの自分の船を持ち、数百両の為替を大坂や越後の商人らと取り組むなど大きな取引きもしている。
江差湊に入津した七尾船主(文政8年〜明治3年)
鹿波屋喜右衛門 (1回)津向屋喜助(2回)津向屋三郎右衛門(5回)須曽屋与兵衛(1回)
越中屋久左衛門(2回)下村屋伊兵衛(2回)津向屋又吉(13回)太田屋長蔵(1回)
小嶋屋三左衛門(1回)太田屋圓九郎(1回)越中屋喜兵衛(1回)太田屋宗兵衛(2回)
津向屋仁兵衛(15回)津向屋久左衛門(1回)吉田屋勘右衛門(2回)津向屋町右衛門(1回)
※( )内の回数は、延べ回数。関川家間尺帳より作成されたものを畝源三郎が転載した。
 また、明治2年(1869)に江差付近で難破した七尾船2艘は、七尾酒・七尾筵・加賀米・醤油・竹原塩・中間縄・蝋燭・菓子を積んでおり、七尾船が運んだ主な交易品も窺える。

 一方、幕末に所口町年寄役を勤めた山本屋五郎兵衛は、天保11年(1840)、越後から236石の吉徳丸を155両余りで購入している。翌年の同船の航路は、まず新潟から米を積んで江差へ行き、江差から鰊を積んで境(鳥取)へ戻り、境から綿を積んで再び江差へ、江差から鰊を積んで境へ、境から綿を積んで出雲崎(新潟)へ、最後は出雲崎から米を積んで堺(大坂)へという行程であった。

 七尾船の活動は、このような松前から大坂までの典型的西廻りや七尾を中継点とした東北から山陰にかけての日本海交易が中心であった。勿論、近距離の湊を結ぶ地廻り船も七尾湊に多数出入りしていた。

<海の豪商・越中屋喜兵衛>
 今町の長福寺境内の墓地に、他を圧するような大きな墓がある。この墓は、喜兵衛の子孫で、明治5年に森文四郎・大成小間治(こまじ)と3人で七尾市長を務めた松田久平が建てたものである。

 屋号を越中屋とするように、松田家は越中国東村の出身で、若い頃江戸へ出て風呂屋の三助をしていたが、ある日占い師に、北方で商いすると大成すると言われ、能登の七尾へきて、竹の皮を船に積み伏木へ運び、多くの利益を得た。その時期は不明だが、喜兵衛の祖先と思える越中屋茂兵衛が、延宝2年(1674)頃に塗師町肝煎を務めているので、かなり早い時期に七尾に来たものと考えられる。

 海の豪商としての越中屋は、文化年間(1804〜18)頃から、北はカラフト・クナシリをはじめ、北海道・東北・北陸・山陰の日本海側の湊に越中屋の帆印である「山吉(やまきち)」の雄姿を見せ、さらに、瀬戸内から大坂へといわゆる西廻り海運の全ての湊に、その名を留めている。また、青森より東廻りで浦賀へ米を積んで入津しており、まさに日本の海狭し船を廻し、物流の第1線で活躍したてきた。

 この頃、越中屋には、7人乗りの嘉徳丸・5人乗り嘉納丸・叶丸・4人乗りの若吉丸・政吉丸・12人乗りの清替丸などで、10人以上の船頭が活躍していた。この船頭の中で佶平が中心的な存在で、弘化4年(1847)3月、富来町福浦港の日和山に海上安全を祈願して、方角石を寄進している。

 久左衛門は喜兵衛の父で、天保7年(1836)七尾町最高の役職である町年寄を務め、同15年の江戸城焼失時に加賀藩は商人より借銀した際に、100貫の銀を出している。この父の跡をついだ喜兵衛は弘化3年(1846)に僅か24歳で町年寄を務め、三島町浜に300歩の倉庫を構え、後年に真宗東派が済美館(現佐藤工業駐車場)を建築した生駒町に邸宅を建て海運業を営み、七尾海運業をリードしていた。

 それで、嘉永6年(1853)の藩主斉泰の能登海岸巡見の際に、所口火災のアクシデントにもかかわらず、越中屋は無事本陣を務めている。

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