このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

江戸時代の沿岸輸送

「日本の内航海運」(交通ブックス)からの抜粋メモ

1.江戸時代

(1)菱垣回船と樽回船

江戸時代、鎖国政策の実施により、わが国の海運は沿岸輸送だけに閉じ込められることになった。しかし間もなく、徳川幕府の中央集権政策による江戸の急激な繁栄とともに、米、味噌、醤油、酒をはじめ日用品の需要が著しく増加した。当時、天下の台所といわれ物資の流通の中心地であった大阪(大坂)から、これらの物資を江戸に輸送するにはもっぱら船が用いられたが、その後貨物の増加とともに益々、船舶の大型化、高性能化が図られた。当時これらの商品の輸送に用いられる大型船は一般に回船と呼ばれたが、当初はもっぱら荷主の自家輸送船として発達した。
他人の貨物を運賃を取って海上輸送するという内航海運の形がとられるようになったのは、1610年代(元和年間)に開始された
菱垣回船(ひがき)であるとされている。菱垣回船といったのは、上甲板の荷止の部分に菱形に組んだ竹垣が使われていたからで、開始当初は250石積み(一石は約0.287立方㍍)程度であったが、十数年後には、600〜700石積みの大型船が投入された。
1640年代(正保年間)に入ると、尼崎付近から樽入りの酒を主要な貨物とする小早(こはや)が開始され、菱垣回船とともに大坂から江戸向け航路の主流をなした。菱垣回船は比較的大型で日用品雑貨を大量に輸送するのを得意としたが、小早は変質しやすい樽入りの酒の輸送のため、小型であるが高速船が用いられた。小早は、享保年間(18世紀初め頃)には
樽廻船と呼ばれるようになったが、この頃から、両回船とも貨物の増加とともに互いに大型化し、激しい集荷競争が行われたという。当時の大坂/江戸間の輸送は、回船問屋が貨物を集荷し一隻分にまとまったら出帆するというやり方であった。また航海日数は片道平均5日、一番速いのは三日程度でスピードを競ったが、年間の平均航海数はわずか5〜6往復であったというから、現在の月間5〜6航海と比べれば、ずいぶんノンビリとしたものであった。
 明治時代(1868〜1912)に入り、汽船の発達とともに次第に衰えを見せ、両者が合併して和船組合などを作って対抗したが、長くは続かなかった。またこの時代、瀬戸内海の海運も益々盛んになり、九州、四国の物資はほとんど海上で運ばれ、わが国の海上輸送に大きな地位を占めた。

(2)河村瑞賢の沿岸航路開拓
伊勢の国出身の豪商、
河村瑞賢が行った沿岸航路の開拓は、江戸時代の海運に特筆すべき業績を残した。瑞賢は1618年(元和4)年に伊勢の百姓の家に生まれたが、幼くして単身江戸に出て、日雇い人足から身を起こし、50才になるまでの間に日本一の分限者と言われるまでに巨万の富を築いた。それまで直轄領の年貢米の輸送に腐心していた当時の幕府は、1670年(寛文10年)に瑞賢に命じて奥州の年貢米の輸送の安全と迅速化について検討、立案させることとした。瑞賢は阿武隈川を川舟で下って河口の荒浜(宮城県岩沼の南)に集められた米を、御用船で江戸に無事に輸送する為、途中数箇所の主要な泊地に番所を設けて、船の運航をチェックするとともに、船の事故処理などを迅速に行わせる事により、この目的を達成することに成功した。また、房総半島回りは危険が多いので、場合によっては徴しから利根川を溯って江戸に運ぶこともできるよう川筋の整備を行うなど、航路の改善にも努めた。この結果、従来に比べて時間も費用も半減するという成功を収めたのである。
 幕府の官僚は瑞賢の功績を賞するとともに、1972年(寛文12)には出羽の年貢米海上輸送の開拓を命じた。それまで最上川を川舟で酒田港に運び、恐らく夏場の凪を利用して日本海を南下し、下関から瀬戸内海に入り、紀伊半島を廻って江戸に運んだ事は有ったようであるが、途中危険な箇所が多く実用にならなかった。瑞賢は先の東日本廻りと同様に、主要な泊地に番所を設けるとともに、特に危険が多い場所には毎夜狼煙(のろし)を上げさせ、また必要な場所には水先の小舟をおくなど航路の安全を図った。
 これらの航路は前者は
東廻り航路、後者は西廻り航路と呼ばれた。この時代のわが国の沿岸輸送の発展に大きく貢献した。しかしながら、わが国の沿岸航路は木造の和船の航行には困難が多く、その後盛んになった北前船でも、大阪を出て下関から裏日本廻りで北海道の松前に到着、再び大坂に戻るという航海であったが、夏場の凪のときしかできなかったこともあり、一隻平均年間一ないし一航海半であったといわれる。

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