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西田幾多郎(哲学者)(1870〜1945)
明治3年4月19日生まれ。石川県宇ノ気町出身。第四高等学校時代についた綽名「デンケン先生」は有名。石川県師範学校、石川県専門学校(第四高等学校の前身)付属初等中学校を経て、明治20年9月に金沢の第四高等中学校予備予科に編入学。翌21年9月から同校第一部に進学。同級生に鈴木貞太郎(大拙)・藤岡作太郎・金田(山本)良吉らがおり、上級生に松本文三郎・木村栄らがいた。明治23年第四高等学校を自主的に中途退学して、独学の道を歩もうとしたが、眼疾のため挫折。上京、帝国大学文科大学(後の東京大学文学部)哲学科選科へ入学、井上哲次郎、ブッセ・ケーベルらに学ぶ。
明治27年7月卒業して、郷里に帰り、翌年出来たばかりの七尾の中学(石川県尋常中学校七尾分校)の一教師として赴任した。同年5月より、「グリーン氏倫理哲学の大意」を『教育時論』に連載。七尾時代の青年幾多郎は毎日のように海辺へ出かけて白い波がしらに見入っていたという。下宿先の娘がある時、何を考えているのかを聞いたところ、「世界のことを考えている。世界というものは不思議なものだ」と答えたということだ。
この年五月、結婚も地元七尾の得田耕氏の長女、寿美としている。翌年には長女が産まれている。後に彼は京都大学を退職する時回想的にこういった「私の一生は極めて簡単であった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたと言へば、それで私の伝記は尽きるのである。」すなわち、その最初の教師生活が七尾から始まっているのである。
翌明治29年母校第四高等学校の教師となり、さらに翌明治30年山口高等学校の教師となる。明治30年頃から熱心に打坐参禅。明治32年又第四高等学校に戻る。明治42年7月学習院大学教授となる。明治時代の学生の大ベストセラー「善の研究」(明治44年公刊)は明治48年に京都帝国大学文科大学助教授(倫理学担当)として迎えられる10年余りの間に徐々に成った。
大正2年同大学の教授となり、同年12月文学博士の学位を受ける。昭和3年8月に定年退職したが、その後も著作活動に専念し、その哲学体系の展開に努め、昭和15年11月に哲学者として初めて文化勲章を受けた。京都で彼が散歩した道筋は「哲学の道」と名付けられている。明治以来の西欧的な移入哲学を脱して、東洋思想の伝統の上に独自の体系を樹立しようと努力。
日本的「無」の哲学を説き、<絶対矛盾的自己同一>を核心とする形而上学に到達。観念論哲学の権威。その学説は「西田哲学」として、多くの追随者をもった。戦後、その影響は薄れたとは言え、未だに日本哲学界では彼を凌駕する者はいないと言われている。文化勲章を授与。著書に「善の研究」「働くものから見るものへ」「自覚に於る直観と反省」「無の自覚的限定」などがある。又、母校の同級生・鈴木大拙(仏教学、禅の研究者、金沢出身)との交友は有名。
彼は、若い頃より、日記や手紙を多数、残しており、七尾に居た頃の文章に次のようなものがある。
「唯(ただ)童子を対手(あいて)にいかにして教育すればよきと日夜苦心いたし居り候。最も方法に困り居り候は倫理に御座候(ござそうろう)。…松陰(幕末の志士・吉田松陰)や東湖(幕末の儒学者・藤田東湖、水戸斉昭を補佐した事で有名)はいかにして天下の名士を陶冶(とうや)せしや。新島(同志社を創設した教育者・新島襄)先生の伝は有益なる書にあらずや。人物陶冶の法は今の自称教育者の説よりは古人の塾則などを見る方よろしからんや」と教育方法に苦心している文章が見られる。又、
「余は自揣(みずからはか)らず能登中学に終わるより一層大なることに奉ぜんと思ふ。始より小事に安んぜば一生成す所知るべきのみ。…明年は東都に出て大(おおい)に独逸文学及び哲学を勉強し今までの仙人主義をすてて務(つとめ)て世界の舞台に出んと思ふ。余は之(これ)を楽として勇気勃々勉強いたし居り候。」「いかにしても東都に出で度(たく)存じ前に申上候如(もうしあげそうろうごと)く明年は再び書生をなさんとも考へ候が、其後(そのご)又熟ら考へ候に小生の如き係累多き身にして全く書生をなすこと誠に困難にて…この頃はいかがせんと日夜迷ひ居り候。…兼(かね)てこの世は唯にすぐさじと思ひ日夜苦慮罷(まか)りあり…」と、その密かな大志を記している。私(畝源三郎)も、能登は辺境な土地だから考えも偏狭になり易く、このような大志を抱くのは、当然の事だし、能登の有為な人材はそうあるべきだ、と思う。
中学の倫理学の教師として先生は「古来の行儀主義をとらず唯、敢進有為の人を養ふ」こと、「丈夫玉砕恥瓦全をモットーとする」「ちと過激なるか」と述べている。
最後に、西田幾多郎先生の命日は、6月7日である。西田先生は、別名寸心先生とも言われていたことから、その命日は哲学者や、弟子、彼に私淑する学者などから「寸心忌」として、毎年偲ばれ、郷里の宇ノ気町などでも、色々と記念行事が行われるようである。
西田幾多郎博士の略歴年表 西暦 年号 年齢 事 項 1870
1873
1875
1880
1882
1883
1884
1886
1890
1891
1894
1895
1896
1897
1899
1909
1910
1911
1913
1925
1928
1931
1940
1941
1945
1954明治3年
明治6年
明治8年
明治13年
明治15年
明治16年
明治17年
明治19年
明治23年
明治24年
明治27年
明治28年
明治29年
明治30年
明治32年
明治42年
明治43年
明治44年
大正2年
大正14年
昭和3年
昭和6年
昭和15年
昭和16年
昭和20年
昭和29年0
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5月19日、宇ノ気町森に生まれる。
向野に移る。
森、長楽寺に開かれた小学校へ通学。
森、西田家に開いた小学校へ通学。
新化小学校卒業
石川県師範学校に入学
病気のため退学。
石川県専門学校に入学。
第四高等中学校退学。
東京帝国大学哲学科選科入学。
東京帝国大学卒業。
七尾中学校教諭となる。得田耕の長女寿美と結婚。
第四高等学校講師。
山口高等学校教授嘱託となる。
第四高等学校教授となる。
学習院教授に任ぜられる。
京都帝国大学文科助教授に任ぜられる。
「善の研究」出版。
文学博士の学位を受ける。
妻寿美没す。
京都帝国大学を定年退職。これにより京都、鎌倉にて著作に専念。
山田琴と再婚。
文化勲章受賞。
昭和天皇へご進講。
6月7日鎌倉で急逝。
遺骨は三分して、宇ノ気町森墓地、鎌倉東慶寺、京都妙心寺霊雲院に埋む。
(参考)
西田幾多郎氏にまつわる展示品は、郷里にある石川県西田幾多郎記念館でみることができます。
◆石川県西田幾多郎記念館◆
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(参考文献)
「西田幾多郎−人と思想」(下村寅太郎著:東海大学出版会)、
「善の研究」(西田幾多郎著・岩波文庫)
「七尾の地方史(第?号)」(七尾市:横川敬雄氏の文章)
「國史大辞典」(吉川弘文社)
西田記念館のパンフレット(宇ノ気町作成)
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