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七尾語学所におけるオーズボンの弟子達

 

 加賀藩は、「維新のバスに乗り遅れた」とよく言われますが、石川県にいる自分(畝源三郎)から見ても「百万石」という言葉におだてられ、実際には、針路を見誤ってばかりの藩だったと思います。江戸時代、実際には貨幣経済になりつつ時代に鈍感で、百万石とうそぶき、それでいて財政難になると有名な豪商・銭屋五兵衛に言いがかりを付け、有罪にするという姑息なやり方で投獄、その財産を没収といった有様。その上、藩政府の姿勢は江戸時代を一貫して、保守的。この為、幕末、百万石は歴史の奔流の中では殆ど無力でありました。また、「加賀は天下の書府」ともうそぶいていたが、歴史的に有名な学者は殆ど輩出していません。そんな中で、明治維新に七尾語学所でオーズボンから教わった人物の中に、その後の日本の近代化(特に学術方面)に大きく貢献した人が多数含まれていたことは、地元の人間である私にとっては、心を晴らしてくれる多少のよすがとなっています。

主なで教え子たち

石黒五十二

1855〜1922

金沢出身。土木技術者。東大卒業、英国留学。各地の河川改修工事や国内各軍港の拡張やドックの工事にあたる。日露戦争の際は、旅順港の沈没船引き上げ作業などに功をたてる。また、民間で宇治電気会社の第一発電所の工事を担当、当時の日本で最大最長の水路トンネルを完成させる。工学博士。貴族院議員。

瓜生外吉

1857〜

1937

大聖寺出身。大聖寺藩瓜生吟生の次男。軍人。七尾語学所の後は、中学東校小学所(従来の藩内の洋学校を全て併合)の訓蒙を命じられた。米国のアナポリス海軍兵学校に留学。日清・日露の両戦役に勲功を立てる。大正元年海軍大将に昇進。又、繁子夫人とともに生涯アメリカのよき友人として日米親善に力を尽くす。貴族院議員。

桜井錠二(錠五郎)

1858〜

1939

金沢出身。金沢藩士桜井甚太郎の6男。東大の前身の東京開成学校本科を修了、渡英、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジに留学、有機化学者A.W.ウイルソンの指導を受け、卒業。帰国後、東大講師、翌年教授となる。定年で退職するまで37年にわたり多くの俊英な科学者を育てた。研究としては、門弟池田菊苗とともに溶液沸点の上昇を測るベックマン法を改良した考案が最もよく指摘され、その開拓に尽くした。理化学の振興に尽力、財団法人理化学研究所の創立を推進、開所後は、その副所長となった。また1926年(大正15)には、帝国学士院長に就任、のちには学術研究会議長、日本学術振興会理事長をも兼ねた。死にいたるまでこれらの職にあって、国際的にも活動し、国際交流にも大きく貢献した。そのほかに標準式ローマ字制定を主唱、英語教授研究所理事長を9年間勤め、東京女学館の創立に参画、後その院長となったりもしている。貴族院議員。枢密院顧問。遺稿に「思い出の数々」がある。

沢田駒次郎

1844〜

1910

小松出身。七尾語学所の後、上京、大蔵省紙幣寮に勤務。東大の植物園に入って薬用植物を研究し、のち第一高等学校医学部(現千葉大学医学部)の助教授となる。退官後、台湾総督府直轄の薬品製造事業を委嘱されて台湾に渡り、そこで逝去。

高峰譲吉

1854〜

 

富山県高岡で生誕、翌年父のいる金沢に移る。慶応元年、藩の選抜で長崎語学所の英語教師何礼之(がのりゆき)の塾に入学。明治元年には有名な大阪の適塾(塾主の緒方洪庵)及び京都伏見の陸軍兵学寮・安達幸之助(加賀藩士)の塾に学ぶ。翌年、大阪医学校に入学、ついで新設の大阪舎密(せいみ)局(後の大阪理学校)に転じた。七尾語学所の開設を聞き入学するが、すでに相当の語学力を付けていたので、大阪に戻った。理学校が廃止された明治5年上京、工部省工学寮の官費修技生に選抜され、翌年入学、応用化学を専攻する。明治12年卒業、英国留学を命じられ、グラスゴー大学、アンダーソニアン大学に学び、明治16年帰国、農商務省御用掛となる。18年特許局長官代理となり我国の特許事業の基礎を作った。翌年東京人造肥料会社を創立し、次いで高峰製薬所を設立した。その後、コウジ菌が出す酵素群の中から食物の消化を促進する消化酵素ジアスターゼの抽出に成功し、明治27年タカ・ジアスターゼの製造を開始した。タカはギリシャ語で「最高」を意味する。勿論、自分の名前にも通じている。明治32年工学博士の学位を授与され、この年タカ・ジアスターゼを販売する会社「三共商店(現在の三共(株))」の前身を設立した。明治34年(1901)には世界で初めてアドレナリンの抽出(単離)に成功する。明治38年、ニューヨークに設立された日本クラブの会長に推された。明治39年薬学博士となる。明治45年、ニューヨークに新築した邸宅を日米親善の社交場として開放。大正11年7月22日ニューヨークにて逝去(享年68歳)。彼は生前、国民科学研究所の必要性を訴え、理化学研究所の設立に尽力したが、同研究所からは後に、ノーベル賞を授賞した湯川秀樹、朝永振一郎、福井謙一やその他数多くの世界的権威の科学者を輩出している。

高山甚太郎

1857〜

1914

大聖寺出身。七尾語学所の後、中学東校小学所の文学訓蒙を命じられた。後、東大進学卒業、同校準教授、内務省地質調査掛を経て、明治19年農務省分析課長を務めた。明治22年ドイツに出張、明治24年工学博士の学位を受けた。明治27年工部大学校講師を嘱託され、明治29年製鉄所技師を兼ね、製鋼業視察に欧米へ出張。明治33年工業試験所の設立を唱え、最初の所長として没年まで在職した。

久田督(孝太郎)

1858〜

1911

金沢出身。七尾語学所の後は、中学東校小学所の訓蒙を命じられた。明治7年長崎英語学校に入学、翌年東京外国語学校に転じた後、更に開成学校予科から東大理学部に進む、明治14年化学科を主席で卒業、農商務省官吏の道を約束されていたが、父親の事業の失敗により教職の道を歩む。福井尋常中学校、三重県尋常中学校の校長を務めた後、明治30年郷里の石川県工業学校長となり、明治32年石川県第一中学校(現県立金沢泉丘高校)の校長に転じたが、在職中の明治44年逝去。

平井晴次郎

1856〜

1926

金沢出身。語学所閉鎖の後、上京して大学南校に入学、明治6年開成学校理学部に進み、明治8年文部省第一回留学生として米国に留学、レンセラー大学で土木工学を学び、明治11年に卒業後、イギリス、フランスを実地見学して帰国。翌年、北海道開拓使御用掛を拝命、北海道における鉄道敷設工事を担当、また、讃岐、奈良、大阪の鉄道工事の設計監督にも当たった。21年工学博士の学位を授けられた。27年鉄道作業局に入り、同局長官を経て、明治40年帝国鉄道庁総裁に任じられたが、のち官制の改革により鉄道院副総裁となった。大正15年逝去。貴族院議員。

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