このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
このページは、私・畝源三郎が1997年暮れに四国を旅行した時の、アルバムをもとに作成したものである。写真の枚数は、200枚以上あるのですが、あまり沢山紹介すると容量が大きくなるので、記憶に残るものだけ抜粋しました。 | ||
<松山> |
12月18日午前10時頃、佐田岬の三崎町を出発した私は、昨日、夜に着いた為、まわれなかった大洲に戻って城でも見ようかと考えたが、ちょうどそちら方面の道路を工事していたので、そのまままっすぐ松山に向かった。途中昼飯を食い午後、松山に入った。 | ||
上の左2枚は、松山城です。ここも、木造建築であり、天守閣の中には、展示品も多く、結構面白い。又、天守閣からの眺めも360度見渡せ、非常に良い。下の写真は、天守閣の中の鎧の展示です。 松山城は、賤ヶ岳七の本槍で有名な加藤左馬助嘉明が築いたものである。嘉明は三河の下級武士の子として生まれ、不遇の少年期を過ごしましたが、羽柴秀吉の配下の加藤左門に拾われて、賤ヶ岳の戦で抜群の功績をあげ、その後、出世しました。文禄の役では、水軍の将として活躍しました。、関ヶ原の戦では、徳川家康に応じて、東軍につき、伊予二十万石の大名となったのです。しかし、実際は城の完成直前に会津に国替えとなりました。 その後、蒲生忠知が入り城を完成させましたが、世継ぎがなくお家断絶となり、結局、徳川家親藩の松平(久松)定行が入城し明治まで続きました。 この様に書いてきましたが、実のところ、あまり加藤嘉明のことは、詳しくないので、これ以上の説明は控えたいと思います。 右上の写真は、松山城からの松山の町の眺望です。道後温泉も、ここからよく見えましたが、何せ予算を決めての貧乏旅行のため、残金がすくなくて、泊まれませんでした。愛媛は、まだみるところが、色々あるので、今度くるときは、もっとじっくり廻りたいと考えています。 | ||
右上と左の写真は、正岡子規の生家を移築した子規堂です。子規はベースボールを野球と訳したことや、野球拳を始めたことでも有名です。私は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」「ひとびとの跫(あしおと)」、夏目漱石「坊ちゃん」を読んで、子規には少なからず興味があったので、狭い家でしたが、じっくり見てきました。私が、行った時、「坂の上の雲」で有名になった、子規と同郷同級で交友のあった秋山真之やその兄・秋山好古(よしふる)の記念品などが展示してあった。秋山家も松山出身です。秋山真之は、日露戦争当時、日本海軍の参謀として、活躍しました。ロシア海軍がめざすウラジオストクまでの航路は、太平洋経由ではなく、対馬海峡を通ると読み、日本海沖でのロシア海軍殲滅にかけて、成功を収める。彼の名前を知らなくても、彼がうった開戦直前打った電文「天気晴朗なれど波高し」という言葉を聞いたことがある人も多いのではなかろうか。また彼の兄・好古は、日本陸軍の騎馬隊の将として活躍、奉天の戦いなどで、その機動性を活かした戦法で功績をあげました。 |
<今治〜観音寺〜善通寺〜丸亀>
松山を出発した私は、国道317号線を通り今治に向かった。夕方5時過ぎに着く。左の写真は、今治城である。12月18日夕方着いたため、入れませんでした。慶長九年、藤堂高虎公が居城として築城しました。海水を引き入れ、三重の堀をめぐらしたこの城は、当時全国でも例のない、一大海岸平城であった。現在の城は、昭和55年に復元されたものであり、城跡は、吹揚公園となっている。パンフレットによると、復元された御金櫓(天守閣?)には、郷土美術館となっているらしい。今治を5時半頃、出発し、県境を越え、香川の観音寺市まで行った。観音寺市では、また例の如く、まず銭湯で汗を流し疲れを取ってから、観音寺港の空地に自動車を止めて、車中泊する。 | ||||
12月19日は、また早朝におきた。というより、自動車の下から入り込む冷気により、起されたという方が正解かもしれない。自動車で、琴弾公園を探すが、よく分からず、通学生がぞろぞろ歩く横をゆっくり通りぬけ、琴弾公園を見下ろす山をぐるっとまわり、やっと入口を見付ける。 | ||||
上の写真は、銭形平次でおなじみの、観音寺市の琴弾公園である。この公園ができたのは、ここを治めていた丸亀城主が、お国入りの際に、余興として、見てもらうために土地の人々が砂浜の白砂で、寛永通宝の銭形一夜で作ったのがはじまりである。 | 上の写真は、観音寺市の琴弾公園を見下ろす位置にある、四国第六十八番札所・第六十九番札所の観音寺と神恵寺である。くっついて建っていたので、写真を見ても今ではどちらがどちらか、よくわからない。 | |||
観音寺を出てから、今度は善通寺に向かう。善通寺といえば、今は大リーグ(1999年11月現在NYヤンキーズ所属)の伊良部のいた高校(ど忘れ)のある所(もしかして出身地?)である。 上3枚の写真は、善通寺のものである。私は、別に信心深いわけではないが、弘法大師(空海)に以前興味を持ったことがあり、善通寺に立ち寄ってみた。弘法大師誕生の地として知られる所だ。 地名ともなっている、この善通寺の名の由来は、弘法大師の父、善通の名を寺号としたことによる。 | ||||
善通寺を出てから、また国道11号線を走り、私の住む七尾市と姉妹都市である丸亀市に着く。一番左の写真は、丸亀城の御殿表門、隣の写真は、おなじく、大手門である。非常に立派な門である。今に残る数少ない名城と言って良いと思う。 | ||||
左上の写真は、丸亀城である。石垣がすばらしい。また、天守閣は小さいが、当時のままの木造作りで、趣がある。又、大手門、御殿表門なども当時のまま残っている。城からの眺めはすばらしく、 右上の2枚の写真は、本丸の城壁の上から見た丸亀市の眺望である。天正15年(1587)に讃岐の大名として17万6千石で入封した生駒親正により慶長2年(1597)から5年間の歳月をかけて、築かれた。高松城の次に西讃岐のおさえとしての役割があったようだ。生駒親正は、元和元年の一国一城令の時には廃城としたが、石垣に土を盛り、植木を植えるなどしてカムフラージュしたという。その後、生駒家のお家騒動により秋田へ転封となると、讃岐の国は東讃岐十二万石に松平頼重が、西讃岐五万三千石に山崎家治が入った。その山崎氏が廃城となっていた丸亀城を造り替えて西讃岐の府とした。その山崎氏も三代で世継ぎがなく、その後、京極家が入封し、そのまま明治まで続いた余談だが、幕末、この城の麓の一廓に、番社の獄などを起したとされる鳥居耀造が幽閉されていたこと(参考:「妖怪」(平岩弓枝))でも有名である。耀造は、明治維新になってから釈放されている。 上の一番右写真で、遠くにうっすらと見えるのは、坂出市と倉敷市を結ぶ瀬戸大橋である。亀山市は、七尾市と姉妹都市というが、行ってみると七尾よりは、随分と都会であった。うちわの生産で有名というが、むしろ大工業地域といった感じだ。また、賭け事の好きな人は丸亀競艇でも知っている人が多いのではないか。ここの、讃岐うどんは、やっぱり旨かった。 |
<琴平>
善通寺を出てから、今度は、金毘羅にやってきた。左の写真2枚は、勿論、金毘羅のものである。手前の方は、船の絵馬を多く飾った絵馬堂である。しかし、社殿がやたらとあったので、一番左の写真は、どの社殿であったか、覚えていない。とにかく、金毘羅宮の写真ということだ。 | ||||
一番左の写真は、神楽殿である。右の写真は金毘羅奥社のものである。また、一段下の左側の写真は奥社の岸壁にきざまれた天狗の顔である。わたしは、ここ奥社に意外と早い時間帯に着いた。すると、今日はじめてここまで来た観光客らしく、階段のところを掃除していたおじさんが、「写真を撮ってあげる」と、石の手摺のとある場所まで連れて行ていった。するとそこには、扇千景(現在国土交通省大臣)とその夫中村扇雀が寄進したものらしく、その名前が刻まれていた。その文字を写るように写真を撮ってもらった。この旅行で唯一私が写っている写真だが、スキャナーで写真を取り込んでみたところ、文字がほとんど解読できないので、ここに掲載することは諦めた。 下の写真は、金毘羅宮からみた讃岐平野の眺望である。真ん中より少し左よりに見える山は讃岐富士と言われる山である。 | ||||
左の写真は、日柳燕石(くさなぎえんせき)の旧宅・呑象楼である。日柳燕石は、幕末の勤王の学者であり、博徒であった。勤王の志士を助ける侠客として知られ、高杉晋作をかくまったことで知られる。戊辰戦争の北陸方面の戦いであった北越戦争に従軍するが、そこで病死した。もともとは草薙を名乗っていたが、三種の神器にも通ずることからおそれ多いと、日柳に変えた。何度もいうようだが、私は、高杉晋作が大好きである。よって、他地域の旅行でも、普通は観光客もみない所でも、彼のゆかりの地であると、よく見に行った。 | ||||
左の写真は、松里庵跡である。ここは、尊皇譲位から開国討幕に思想を鞍替えした高杉晋作が、刺客にねらわれ、愛人のおうのと逃避行していた時、日柳燕石にかくまわれた宿屋の跡地である。 | 上の写真は、鞘橋と呼ばれる屋根がかかった変わった橋である。 | |||
左の写真3枚は、日本最古の演劇場、金毘羅の金丸座である。一番左は、外観、真ん中は、舞台、一番右が、舞台下の回り舞台の様子である。 |
<栗林公園〜屋島>
金毘羅参りがおわり、麓の参道のうどん屋で、少し遅い昼メシ(勿論、讃岐うどん)を食べてから、琴平を後にした。次ぎは、高松に向かう。高松では、最初、栗林公園に行った。 | |||
上の写真は、いずれも高松の栗林公園である。栗林公園と言っても、栗の木は庭園内には実は数本しかない。今では松の木が大半を占める。なぜ、栗の木が少ないのに栗林公園なのか不思議だが、実は昔は栗の木が生い茂っていた。最初は、江戸初期のとある武士の邸宅であったのが、のち幾つかの経緯で、高松松平家(初代は徳川光圀の兄)の庭園となった。栗林だと、歩いていて間違えて踏むと痛いので、殿様が栗に木を伐採させた。家臣が、伐採したあと、何の木を植えたらいいかお伺いを殿様に立てたところ、殿様は「しばし待つがよい」と言ったのを、それを聞いた家臣が「しばし松が良い」と勘違いし、松をザッと植えてしまった、という嘘のような本当の話が、現在松林の庭園になっている所以である。 | |||
栗林公園を後にした私は、今度は町を少し抜けて、屋島に向かった。左の写真は、屋島の高台からみた源平の古戦場である屋島の壇ノ浦古戦場である。埋められたにしても、意外と狭い水域で戦っていたのだなー、という気がした。那須の与一の話で有名な戦場である。右の写真2枚は、屋島寺である。 | |||
屋島寺で、夕方になってしまったので、12月19日の夜は、屋島の西麓にある屋島健康ランドに泊まった。ホテルだと高いが、ここだと、食事だけにして、マッサージなど控えれば、3千円ほどで色んな湯を楽しめる。ということで、この日は、ゆっくりと眠ることができたた。 12月20日の朝、またラッシュをさけ、高松城までゆく。城のまわりは小さく、面白くなかった。 一応、城の説明だけはしておこう。この城は、天正16年天下統一を成し遂げた豊臣秀吉によって任命された生駒親正が築城した。このあたりは海辺の寒村であったが、城地としては理想的な条件を備えていた。このことは、城の縄張りをした藤堂高虎と、黒田如水が、「この城地はまれに見る天然の要害で、船便もよく、国主の居城地として味方千騎に価する」と、絶賛したということから容易に想像がつく。 しかし、生駒氏の転封により松平氏が新たに入った。この松平氏によりさらに城郭は拡げられ、現在の縄張りとなっている。別名玉藻城という。 | |||
高松をでてからは、一路(国道11号線を通って)鳴門大橋に向かった。途中、平賀源内の博物館らしきものがあるとかいてあったので、国道を少し海側に入って5分ほど探したが、見つからなかったので、あきらめた。鳴門についてからは、一休みして、淡路島に渡った。 |
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