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大盗・白銀屋与左衛門
(参考文献)「世相史話」(石川県図書館協会)
金沢で江戸中期に跳梁した能登出身の大泥棒・白銀屋与左衛門についての記述。
<背景−宝暦時代相>
世に加賀騒動と呼ばれる大槻一党の疑獄が、結末を告げようとする頃から、藩の様相は、ようやく沈痛の色を深くしてきた。
それは、前田家6代の藩主・吉徳が延享2年(1745)になってから宝暦3年(1753)にいたるまで、わずか9年の間に宗辰(むねとき)・重熈(しげひろ)・重靖(しげのぶ)の3公子がたがいに封をつぎながら、ともの15歳から25歳という若さで早世したことである。しかも、その間における葬送と相続の儀礼が昔のままに百万石の格式で行われたため、冗費のかかることも膨大で、府庫はまさにその底を衝かんとしたからである。
そこで藩は宝暦5年、銀札を発行して当座の急を切り抜けようとはかったが、結果は全く逆になって、正貨の影の隠されるとともに米価は殺人的(平均相場の40倍)に釣り上がり、翌年には窮乏した民衆が暴動して金沢の米屋をぶち壊す大騒動が起こったため、藩もあわててその発行をやめたのである。
さてこの乱発された不換紙幣の回収と整理とに、さしあたり銀9万貫必要となったが、藩にそういう余裕もないので、取られた策は武士の知行の借上げ(借上げと言っても、期間中その知行地で収穫された米の返済の義務はなかったので、実質給料ダウンと同じ)であり、削減率はだんだん高まり、ついに半知借上げとなった。
この銀札発行の失敗の傷痕も癒えぬ、宝暦9年(1759)、金沢の町は未曾有の大火でその過半を焦土と化した。記録によると、城の殿閣をはじめとして全焼10,508戸、死者26人、米穀の損耗387,300石余りと報告されており、全く泣き面にハチであった。
家を焼かれ、財産を失った被災者で、その日から路頭に迷う者さえ少なくなかったが、疲弊した藩の財力では何とも救済の手が届かないため、武士も町民もヤミ生活に転落して、世相は急に険しくなる一面、富くじや博打などが至る所で流行するとともに、スリと泥棒が巷に踊った。こうした時代を背景に登場したのが、大盗・白銀屋与左衛門である。
<蔵破り24棟>
与左衛門は、その屋号の示す通り金銀細工を渡世とする職人で、もと能登の生まれだが金沢に出て白銀屋に養われ、技を桑村源左衛門に学んだ。北陸一の名工と呼ばれた乗空こと清左衛門克久は、この源左衛門の父親で桑村彫の開祖である。
与左衛門が、どうして賊を働くまでになったか、その径路は明らかでないが、この道の誰もが踏む定石の酒と女であったことが、その一因であるようだ。彼の住居は母衣町とも言い主計町(当時遊郭のあったところ)とも言うが、いずれにしてもそうした環境が、一人寒灯のもとにコツコツと、かな敷の上でタガネを鳴らす若い白銀職人の蕩魂を揺すらずにはおかなかったことであろう。
彼は白銀職としては凡手でも、土蔵を破ることは名手であった。その破った個所は24個所にものぼる。それを記した川尻屋五左衛門という人の留書「歳々略歴」によると前田左膳・横山斎宮・富永数馬・生駒内膳など人持組の大身以下武家が17個所、町家5個所、医家2個所ということになり、武家屋敷に被害の多かったことがわかる。その頃武士が貧困に窮していたにもかかわらず、武士に目をつけたのは、もっぱら刀剣の装具であるツバ、目貫、セッパ、ハバキなどの貴金属にあったのであろう。
彼は商売柄、こうした品々の鑑定に目利きであったのみならず、その剥奪にも慣れていたと思われる。それから、武家の所在地が町家と異なり閑静で邸内も広く、樹木も茂っていて忍び込むのに都合が良かったこと、次に、白銀職として自然武家に出入りする機会が多かったため、屋敷の模様から勝手の都合まで、残らず知ることができたこともその条件として考えられる。
彼が、公事場の牢にいる時、同じ牢にいた者に語ったところによると、蔵に入って仕事をする場合早く出ようと焦ることは良くない。度胸をすえて落ち着いて一日でも二日でも泊まり込むつもりでかかれば、我家に居るのも同じことだ。総じて、夜中に物を取るのは、わずかな物でも音がして悪いが、昼は道具を使っても、日中の気にまぎれて誰も気付かぬものである。人はとかく陰に向って用心するが、陽に対しては油断する。かつて忍び込んだある屋敷から立去る時、家人が台所で朝飯を食べている所を悠々とまかり通ったことがあるという。
<武士の連累百余名>
続発する盗難の訴えに、町の夜番はその警備を厳にするとともに、盗賊改方も町会所も躍起となって犯人の捜査にあたったが、数年間何の手がかりもなかった。もとより彼の手口の巧妙さもあるが、一つは武家から盗み出した貴金属のことごとくを鋳つぶして、現物から足のつかないように日頃周到の注意を払ったためである。
彼が天運きわまって縛に就いたのは、宝暦12年11月晦日であったが、その吟味中さらに驚くべき意外な事実が発覚した。というのは、馬廻組250石前波儀兵衛の娘「たみ」というのが、10年以前出奔して行方不明と伝えられていたところ、実はこの大賊の妻になっていたのみならず、れっきとした藩士の多くが彼と一緒に博打でアルバイトを稼いでいたことである。
白銀屋事件に連累して処分せられた武士の数は、おそらく百人を超えたであろう。試みに明和元年3月11日、知行を召放されたものだけをあげても左の5人がいる。
組外組400石:橋本平左衛門
同300石:津田三郎左衛門
同150石:不破権左衛門
同100石:高田善左衛門
定番徒:中川丈助
この他、馬廻組石黒平兵衛ら15人も、同日閉門を命じられたが、なお逼塞(ひっそく)遠慮などの処分を受けた者にいたっては、一々挙げきれないくらいである。記録によれば不良の武士で宝暦4年から明和3年までの13年間に食録を放されただけで39人、その没収地7,980石と見えている。士風の頽廃かくの通りであったとしたら、町の風紀紊乱もまた想像に余りあろう。
さて白銀屋が公事場の牢につながれた翌13年7月11日、もと藩士で、飲博で身をくずし家来の若党に盗みを働かせたことから、士籍を剥奪され公事場の牢へ投ぜられた佐藤平左衛門という者が、偶然にも彼と同じ部屋に収監された。2人は、たちまち肝胆相照らす仲となった。
<八寸釘で牢破り>
猩々は猩々を知り、悪党は悪党を知る。白銀屋は、ウマがあったのか、ある時ひそかに佐藤を呼んで、破獄の陰謀を打ち明けた。その方寸は我が胸にありと豪語して、彼の協力を求めたところ、彼は一も二もなく賛成したので、さらに同囚の多田蜂助という兇漢を仲間に引き入れ、3人共謀で機の熟するのを待っていた。蜂助の素性は全くわからないが、おそらく名字のあるところをみると、下侍くずれの不良であったろう。
ある時、白銀屋はどこをどう才覚したものか、牢内の八寸釘を一本抜き取って、それに柄を打ち込むとともに娘師(土蔵破りの隠語)の腕をふるって、次から次と逃げ口にあたる個所の釘を引き抜いた。佐藤も多田もこれに手伝ったことはいうまでもない。しかしこの仕事を遂行するには、何としても相牢の者4人の加担を必要とするので、彼ら3人に目をむき肩を怒らして無理強いに迫り、もしも不同心の者あらば、その場を立たせず絞め殺さんと脅したところ、いずれも足腰の立たぬ片わ者か病人ばかりであったので、是も非もなく一味に加わることとなった。
「道庵夜話」という碑史に、白銀屋が毎度白洲へ引き出されて吟味を受けたある日のこと、わざと物に躓き転んだ風を装い立ち上がる時、手ごろの石を拾いかくして牢舎へもどり、それを砥石にして八寸釘を研ぎ、鋭利な刃物に仕立てたことを書いている。
かくて、宝歴13年10月18日の朝6時を合図に、一同牢を逃げ出す手はず万端整ったが、いよいよ破獄の寸前に至って、同類の中から牢番へ密訴するものがあったため、公事場はたちまち大騒ぎとなり、彼の陰謀も失敗に終わった。第10代藩公重教の「泰霊公御年譜」に「今朝六つ時、牢を逃げだし申すつもりの所、相牢の者より右たくみのおもむき牢番まで訴人におよび、今朝公事場殊の他騒動、逃げ仕度致したる三人の者呼び出し、厳しく吟味これある由」と見えている通りだ。
彼はとうてい死罪を免れなかったであろうが、この破獄事件のため、さらでだに刑を加重させられて、翌明和元年4月27日公事場で生胴(いきどう)の刑に処せられ、13歳になる彼の倅で前田駿河守の家臣木村惣太夫に奉公していた少年も同時に首を刎ねられた。この生胴を少し説明すると、まず処刑者を裸にして両目を布で隠す。次に双手を縄で縛って、地上二尺ばかりに足が離れるまで吊しあげると、太刀取りの役人が気合いとともに胴を払う。その途端、上半身が逆転して頭が下になるところを、すかさず首を打つのである。
<奇聞珍説五題>
白銀屋が希代の大盗であっただけに、その奇聞珍説も少なからず伝わっているので、それを記す・
その1)彼は、心臓に毛の生えた大胆ものだが、犯行には頗る細心で、風貌も女のように優しかった上、平素無類の臆病者をい装い、武家へ呼ばれて注文を受けても、夜になるのを迷惑がり、帰りには必ず迎えの者を待つか送りの供を望むかするので、彼は日が暮れると一人歩きもできないやつだと、よく人から笑われていた。
その2)ある時、浅野川沿いの富裕な医者の土蔵をねらったが、日の中は人の往来が絶えないので、夜を待って忍び込み、金目の物を物色していると、あたりの静けさに物音を聞きつけ、家の者が起き出してきた。彼は、じっと物かげに身を潜めつつ、やがて相手が二間ばかりに近づいた時、懐にしていた一匹の猫を押し出した。すると、家の者は「何だ猫か」と舌打ちしながら立ち去った後で、存分仕事を稼ぐ殊ができた。猫はその家に飼っていたものを、万一の用心に盗んでいたものである。
その3)まだ賊を働かない前のこと。ある日浅野川橋辺の道具屋で、熊坂と牛若丸と対の目貫を手に入れた。ほこりにまみれ彩色もはげていたが、いかにも上作と覚えるので、これに修理を加えて転売したところ、金五両ばかりもうけることができた。その後、また偶然にも同じ熊坂の目貫を買ったが、これは、牛若丸なしの片方ばかりなので、やがて一対そろえようと懐中している中、飲食や賭博に身を持ち崩して、盗みも働くようになると、この目貫が無上に尊く有り難く、さながら守り仏のように信仰せられるとともに、泥棒稼業も日増しに繁盛したのである。然るにこの目貫をふと遺失してからは、盗みに入っても危ないことが多くなり、盆ござの上の勝負も思うままにならず、ついわずかの油断から事露見して今この身の上と、相牢の者に語った。
その4)土蔵を破るには秘訣がある。赤銅製の小さいコンロに炭を入れ、そでフイゴで火を熾し、焼鋸という特殊なノコギリを焼いて使えば、鉄壁といえども豆腐を切るようにたやすいと、彼は語った。
その5)盗難がしきりに訴えられた時、町会所では手先を回して質屋、刀屋、古道具屋などをシラミ潰しに調べる一方、他国へ積み出す町荷についても厳しい詮議を行った為、事実彼はその盗品をどう処分することもできなかったはずである。しかるに彼は、その野合した妻の兄に当たる不良武士の馬廻組秋葉儀太夫(前記儀兵衛の子、後に知行没収)と結託して、その盗品を荷にし、それに儀太夫の絵符(荷物につける身分証明書)をたてて、京・大坂から江戸まで自由に送って売り飛ばしたため、たやすく物的証拠をつかむ事ができなかった。
以上
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