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彫刻家・高田博厚
 私は、自分自身絵を書いたり彫刻をすることがすきなので、高田博厚の名前は以前から知っていたが、まさか、自分の郷里と同じ七尾に生まれていたとはしらなかった。それだけに、最近、七尾市の各家庭に配布された「図説 七尾の歴史と文化」の本を見たときは、驚いた。どうも、七尾は昔から地元出身の知識人、有名人を、一度七尾から離れてしまうと、粗末に扱うきらいがあるようだ。こういう偏狭な性格が市民の性格となっているようでは、市の発展は自ずと行き詰まるものになるのが自然の道理だが・・・。先人の業績を讃え郷土の誇りとし、市民が自らの目標としてこそ、郷土史の意義があり、そこから活力が生まれるのである。でないと、郷土史は殆ど意味はない。(自省の言葉)

<生い立ち>
 高田博厚(たかたひろあつ)は、明治33年(1900年)8月19日、矢田郷村(現七尾市岩屋町)に生まれました。晩年、七尾の知人の中に宛てた手紙の中で高田は、七尾湾の夕空に浮かぶ雲が大変美しかったと回想しているそうです。高田が2歳の時、父親が弁護士開業の為福井市に移り住みます。福井市順化尋常小学校、旧制福井中学校卒業後、18歳で上京するまでの青春時代を福井で過ごした。中学校1年とき、東京美術学校に在学中の彫刻家・雨田光平氏の作品によって、初めて彫刻に触れ、文学、哲学、美術書に熱中していました。

 中学卒業と同時に、上京し、東京美術学校を受験するが失敗。まもなく長年の友人(画家)に彫刻家で詩人の高村光太郎を紹介され、その交流などを通して独学で彫刻を勉強したようです。またその頃、当時白樺派に送られたロダンの彫刻(ロダン夫人)に強く打たれました。「麗子像」で有名な岸田劉生とも知り合いました。東京外国語学校伊語科に入学(21歳)しますが、2年で中退しています。イタリアの原書をミラノの本屋から直接購入し、その後、コンディヴィ「ミケランジェロ伝」を訳註するまでになっています。

<フランスへ>
 雑誌、「白樺」で西洋美術を知り、高村光太郎と親交を結ぶ頃には高田は生涯彫刻を志す事を決めていました。昭和6年(1931)春、31歳の時、かねてより憧れだったフランスへ単身渡りました。ロダンやマイヨールら金台彫刻の巨匠に学ぶ。滞在先のパリでは文豪ロマン・ロランをはじめ、哲学者アラン、詩人ジャン・コクトーなど当時のヨーロッパの代表的芸術家ら多数の人々と交誼を持ち、数多くの事を学びましだ。またガンジーともこの時親交を深めたようです。

 そして彼らの肖像制作に励みました。これが、ヒューマニズムの思想潮流とあいまって、戦後、高田を一躍有名にすることとなったようです。彫刻家として、日仏友好の懸け橋として活躍した高田のフランスでの滞在は昭和32年(1957)、57歳での帰国まで20年以上に及びました。終戦直後は、彼はドイツで難民になるなど、生死の境をさまよう苦難を経たようです。

<晩年の高田>
 帰国後、高田は、東京にアトリエを構え、その活動は、制作・執筆・講演と幅広きにわたり、寸分の時間を惜しむ程の活躍ぶりでした。彼の多くの著述のうちフランスの精神文化を伝えるこれらの文筆は、多くの高田の愛好家を生み、今なお変わらぬ人気を保っています。新制作協会会員。日本美術家連盟委員。日本ペンクラブ理事。東京芸術大学講師などを務め、九州産業大学芸術学部の創設に尽力します。その後、老境を迎え、制作に専念するために鎌倉に転居、「自分はまだまだ小僧だ」と語り、常に探求心を怠らなかった。昭和62年(1987)、高田は86歳で静かにその生涯を終えました。
著 書
書名著者訳者発行年出版社
ルオー高田博厚・森有正著1990第三文明社
ロマン・ロラン全集 22 芸術研究 Ⅲロラン,R.(ロマン)著蛯原徳夫・高田博厚1981みすず書房
ミケランジェロ伝コンデヴィ,A.著高田博厚1978岩崎美術社
素描ロダン・ブールデル・マイヨール高田博厚 編著岩崎美術社
ロマン・ロランⅠロラン,R.(ロマン)著高田博厚筑摩書房
ロマン・ロランⅡロラン,R.(ロマン)著高田博厚筑摩書房
ミケランジェロの生涯ロラン,R.(ロマン)著高田博厚岩波書店

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