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灘浦海岸の大型定置網漁業
初冬の能登灘浦(能登南部の富山湾側の海岸地帯)に強風が吹き荒れ、海が時化(しけ)、雷鳴が轟きます。地元ではこの風を「鰤起こし」と呼び、この時期鰤の群れが潮流に乗って、佐渡沖から氷見浦、能登灘浦へと登ってきて、鰤漁の始まりを告げる風であります。能登灘浦は石動山系から延びた山々がが背後に迫り、前方に立山連峰を臨む湾内は海底が深く抉られており、海底は高低に富み縦横に交錯しています。海流は南北より合流しさらに北上する関係上回遊魚族(ブリ、サバ、マグロ、イワシ、イカ類)に恵まれていました。一方、海岸線は入り江が少ないため魚船の停泊する場所は少なく、またこの地域が半農半漁の生活であるため漁船漁業より共同で比較的漁船数の少ない定置網漁業が発達したと思われます。そして今では、この大型定置網漁業は全国的にも有名で、日本3大定置網漁業地帯の一つに挙げられ、1統当たり漁獲量約3,000トン、金額約10億円を水揚げするものもあり、当七尾市管内の漁獲量の約90%を占めています。
定置網は、岸から垣網を張って、沖の身網に魚を誘導し、入ったところを、網揚げして捕らえるもので、この地域での定置網の記録としては、天正10年(1582)前田利家が庵の高梼にあてた文書に、庵に「在所の網」と「白鳥岸の網」があったことが記されています(白鳥は現七尾市江泊町字白鳥)。また天正13年8月に、前田利家が「大呑百姓」に魚を尾山(金沢)まで運ばせた例をみても当地は有数な漁場であったことが知れます。
当時の網は、麻苧(まお)製の古い型の糸網であったかは不明であるが、元和7年(1621)の越中阿尾村(現氷見市阿尾)資料に藁台網が見られ、能登灘浦の網がすでに藁台網であったとも考えられます。
しかし、この藁台網は一度入った魚が逃げやすいという欠点があり、この欠点を改良したのが江戸時代庵村の新屋門兵衛(あらやもんべい、又は、あたらしやもんべい)で、元禄10年(1697)に「藁網でない網」を考案しました。彼が書き残した宝永元年(1704)の「鰤網絵図」には各年の鰤の入り具合や網の様子が書き留められています。享保7年(1722)に「沖はえの」に「かり袖」を付け、一度入った魚が逃げにくくした「金網」が改良案が書かれています。門兵衛は庵村のみならず越中宇波村(現氷見市宇波町)へも定置網の技術指導に出かけています。享保9年9月3日(1724)にはたふの木網で5千余本の鰤を取ったと記しており、定置網技術のめざましい進歩が見られます。その後「角網」の改良の加わりましたが、金網の基本型は半世紀を通じて殆ど変わりませんでした。
またおとなり越中灘浦では幕末頃「イワシ瓢網」を開発し、大正6年「越中式大敷網(運動場無底)」が創始され、前述した漁業環境により定置網を地方ごとの長所を取り入れ改良されて大型化されてきました。
このような全国的に有名なまでに発達した大型定置網ですが、昔から網を卸す場所(あど)が問題がたびたび生じ、この「あど」を巡っての争論が藩政期を通じて絶えませんでした。漁場の名称に古くから知られる白鳥海岸の網に続いて古鳥(現七尾市大野木町)・赤岩(現七尾市庵町百海)が古統といわれます。他に古新統、次いで中古新統があり、一番新しい新々統といわれる網までがあります。この漁場を巡った争論は文久2年(1862)に網の辻本と定杭を定めた絵図を作成し、御預所役所(おんあずかりどころやくしょ)の久徳嘉兵衛等3人の奉行が調停したというい記録があります。
何はともあれ、現在もなお盛んな鰤網漁は、能登灘浦の財産として受け継がれています。
(文久2年 鰤網絵図写)
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