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七尾における天領
(1999年9月2日更新)
天領とは幕府の領地で、藩領とは大名の領地である。
慶長10年(1605)、2代藩主利長は、藩主の地位を弟の利常に譲り、越中中新川郡22万石を隠居領として富山へ移りました。富山城の近くに、土方雄久(ひじかたかつひさ)の領地がありましたので、利常は、これと能登62ケ村と交換しました。この時、七尾市域では、八幡村など13ヶ村が土方領となりました。
土方雄久は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、利家の妻芳春院の甥である土方雄久が、前田利長が東軍に与するように働きかけた功により、越中新川郡で1万石を領知し、同10年に能登国へ上記のように移邦されたのでした。土方雄久は、山崎村(七尾市)に陣屋を設けた。陣屋の役人などは不明だが、阿良加志比古神社の寛永17年(1640)の絵馬に「願主 入江源次郎宗能(むねよし)」とあり、明暦2年(1656)の獅子額に「願主 大沢伊兵衛」とあるのは、陣屋役人の奉納によるものであろう。
土方雄久は、このように山崎村に陣屋を設け領地を治めていましたが、雄久から雄重(かつしげ)・雄直(かつなお)と続き、4代目の雄隆(かつたか)は、延宝9年(1681)、自分の領地の一部を弟の雄賀(かつよし)に与え、雄賀はその一部(150石)を次男の長十郎に分け与えました。こうして、能登の土方領は、雄隆(1万2千石)・雄賀(850石)・長十郎の3人の領地に分けられました。この時、庵村の枝村、外林(とばやし)、柑子山(こうじやま)、清水平(しみずたいら)、槙山(まきやま)、小栗(おぐり)の五ヶ村が分かれ土方雄賀領になりました。
ところが、雄隆がお家騒動を起こし、貞享元年(1684)、雄賀領はお家断絶の憂き目に会い、幕府に没収されて、天領になり、幕府は、下村に代官所を設置し、手代を常置させ直接支配した。いま「下町」に「ごじんや」という地名があるが、そこが代官所のあったところと考えられている。この天領の内、1万石は元禄2年(1689)より、同8年まで鳥居播磨守に、元禄11年から同13年まで水野数馬に宛がわれた。両者とも旗本領といわれるが、万石以上なので譜代大名であろう。
七尾市域天領支配変遷表 | ||||||||
慶長11年 | 延宝9年 | 貞享元年 | 元禄2年 | 元禄8年 | 元禄11年 | 元禄13年 | 天明6年 | |
村名 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
八幡 | (八幡) | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
下 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
熊淵 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
山崎 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
花園 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
東浜 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
大泊 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
黒崎 | □ | □ | □ | □ | □ | □ | □ | ◎ |
佐々波 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
庵 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
外林 | (庵) | △ | △ | △ | △ | △ | △ | △ |
柑子山 | (庵) | △ | △ | △ | △ | △ | △ | △ |
清水平 | (庵) | △ | △ | △ | △ | △ | △ | △ |
槇山 | (庵) | △ | △ | △ | △ | △ | △ | △ |
小栗 | (庵) | △ | △ | △ | △ | △ | △ | △ |
江泊 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
大野木 | ○ | ○ | ◎ | ● | ◎ | × | ◎ | ◎ |
祖浜 | ○□ | ○□ | ◎□ | ●□ | ◎□ | ×□ | ◎□ | ◎□ |
石崎 | ○□ | ○□ | ◎□ | ●□ | ◎□ | ×□ | ◎□ | ◎□ |
○は土方領、◎は天領、□は加賀藩領、△は土方雄賀、●は鳥居領、×は水野領をあらわし、1村で複数の印があるのは、 それぞれの入会をしめす(石崎・祖浜は天領・私領入会地)。 |
享保7年(1722)に幕府は能登天領の61ヶ村[天明6年(1786)に天領村、藩領の入れ替えがあり、能登天領は62ヶ村となった。この時、藩領の黒崎村はこの時天領となった]の統治権を加賀藩に預け、いわゆる御預所(おあずかりどころ)として支配した。藩は、御算用場(ごさんようば)内に、御預所役所を設置し、下村陣屋を藩領の府中村に移した。
ところで、長十郎領150石は、長十郎が養子に出たので幕府に返還し、雄賀領850石はそのまま幕末まで存在した。
文化7年(1810)御預所一統私領同様の取扱いとし、御取箇(おとりか)(租税)は「永定免・皆金納」となり、加賀藩は、5千両を幕府に納めることになり、従って、能登天領の年貢も金納に改められた。
幕末も押し迫った慶応3年(1867)には、「御私領打込」となり、加賀藩は物成として文化度の約3倍の1万5千両を上納することにより、藩の法令を全く旧天領村で施行しようとしたので、旧天領の庄屋などは一致して大反対運動を起した。明治元年(1868)3月、またもや御預所に復帰した。明治維新を迎え、徳川家からの御預所は、今度は朝廷からの御預所となり、加賀藩の1万5千両という貢物は朝廷が確保することとなった。
明治3年5月、この御預所は新生の飛騨県に(のちに高山県)へ編入され、明治4年7月、廃藩置県により金沢県が成立したが、明治11年、そのうちから能登4郡と越中射水郡が分離して七尾県が成立した。その時、これまでの旧御預所は七尾県に所属替えとなった。
現七尾市域の天領村は、八幡(やわた)・下・熊渕(くまぶち)・山崎・花園・東浜・大泊・黒崎・佐々波・庵・江泊・大野木・祖浜・石崎の14ヶ村。
統治機関としては、土方領時代は山崎村に陣屋が置かれ、天領となると下村(通称「ごじんや」に陣屋が移り、享保8年(1723)に、下村の陣屋は廃止となり鹿島郡府中村に御預所(現七尾市役所の位置)が設けられ、高山県時代は、鳳至郡大町村(現・穴水町)に高山県大町出張所が設けられた。土方分家領も各村も同様の経過で七尾県所属となった。
(参考)「七尾市ものしりガイド・観光100問百答」(七尾市観光協会)、「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)、
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾市の歴史と文化」(七尾市)
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