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《略史》
 晋の建国は西周初期、武王の子である虞が成王の頃に唐の地に封じられたことに始まる。息子の燮が遷都を行ったため、それ以降は晋侯と称するようになる。
 晋国はその地理的位置上の関係で北方民族としばしば抗争を起こした。西周の滅亡時には、晋・文侯が平王の東遷を大いに助けることになる。
 春秋時代になって、昭侯の頃に晋は翼と曲沃の2つの都市に分かれ、抗争が繰り返された。文公の祖父である曲沃の武公は翼を滅ぼし、晋を再統一させた。
 献公の頃に晋は相続争いを起こす。驪姫の乱である。その後訪れた文公の時代が晋の最盛期である。このころから晋は中華の盟主として楚との覇権争いを繰り広げるようになる。
 晋は春秋時代中期以降、家臣の勢力が公室を上回るようになる。定公の頃になると、公室と家臣との勢力差はもはや比べようもなくなり、六卿と呼ばれる六つの有力家臣(知・趙・魏・韓・中行・)が政権を握ることになる。
 六卿は、最終的には趙・魏・韓の三氏が残った。このころには晋の公室は絳と曲沃の2つの邑のみの領有となっていた。この三氏が周王から諸侯として認められ(紀元前405年)、晋は静公の時代に趙・魏・韓の三国に分割され、滅亡した。
 晋の滅亡は、そのまま春秋時代の終焉を表すこともあり、春秋時代はそのまま晋の興亡史とも言える。


 参考文献
 司馬遷 小竹文夫・小竹武夫訳 『史記』 ちくま学芸文庫
 《史記・世家》から見る晋の成立とその盛衰

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