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大聖寺城跡

鎌倉時代に狩野氏により建てられ、その後は一向一揆衆の居城となる。
後に越前朝倉宗滴が一向宗を追いやり、越前の北方の要として一揆衆対峙していた。
宗敵は一向衆の分裂に付け込み、一時は手取川あたりまで勢力を延ばす。
また、南方では織田軍と連携して美濃に出陣、斉藤道三と戦うとともに、井口城下を焼き払うなど、不敗の将で戦の天才と言われた。
しかし、彼も年には勝てず、陣中にて79歳で死亡した。
「武者は犬とも言え、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」と言い残したと言われている。
いやはや朝倉家にしてはほんとめずらしい人材だった。
彼が150歳くらいまで生きていたら、朝倉家が天下を取っていたかもしれない。

その後、主は転々とするが、戦に利用されたのは元々秀吉の家臣、山口宗永が関が原の戦いの際に西軍に味方し、金沢城主前田利長に攻められ、自害している。
その後は一国一城令により廃城になった。
山口玄蕃頭宗永公の碑。
山頂に立つ。
山頂からの眺め。
結構高いところにあり、加賀の町が見渡せる。
山頂に上るのは結構キツイ・・
現在は錦城山公園として整備されている。
馬洗池。
馬を洗った池。(そのまんまかい。)
明治時代はここでこそっと贋金が作られていたらしい。
贋金作りに山代温泉が利用されていたとは・・

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