このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
高坂弾正の墓
初代海津城主、高坂弾正の墓。 武田四名臣のうちの一人。 甲陽軍艦に「逃げ弾正」として書かれているのは有名である。 甲陽軍艦とはもともと山本勘助が子で軍僧(戦場で戦死者を弔う係)、鉄以が作者だと言われており、その後、高坂弾正が加筆したと言われています。 「逃げ弾正」といっても、別に逃げてばかりと言う意味ではありません。 合戦に際して、強引な戦をせず、深入りをしない慎重な性格の表現のことである。 しかし、弾正が甲陽軍艦に加筆していることを考えると、自ら謙遜して「逃げ弾正」と称したのだろう。 長篠・設楽ヶ原の戦いでは、北方の上杉に備える為、海津城に留守部隊としていた為、参加していない。 織田、徳川連合軍に敗れたことを知った昌信は、兵を連れて途中まで迎えに行き、鎧を着替えさせ、敗軍のみじめさを感じさせないようにしたという。 その後、惨敗した武田軍を持ちなおさせるため、穴山梅雪(信君)をはじめ武田御親類集の力を弱める再編成案を出したが、その指揮を取って欲しいと勝頼に依頼された際、自分は北方の備えをしろと信玄様に言われておりましたので、どうか別の者を・・と言って勝頼は烈火のごとく怒らせた。 何かと父親と比べられるのが嫌だったのでしょうね。 結局その進言は採用されることの無く、武田軍は衰退の道を進んでいくのであった。 アクセス 長野ICから25分ほど。明徳寺内。 車じゃないとつらいでしょう。工事中だったため、駐車場は見あたりませんでしたが、寺の私道にたくさんとめれます。でも急な坂道なのでサイドブレーキはしっかり引きましょう。 地図 |
手前の交差点には案内もあるのでまあ迷わないでしょう。 小学校の横手には大きな案内もあるので、その道を登っていきます。 だんだん狭くなってきますが、寺の側まで来るとまた広くなります。 | |
明徳寺の山門。 なかなか立派。 | |
きちんと案内もあります。 | |
お墓。 なんか側まで近寄りがたい雰囲気があった。 |
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